形容動詞
形容動詞は、ある言葉に「にあり」がついてできた品詞なので、活用は動詞の「あり」と同じものになります。ただし、連用形にだけ「~なり」という形と、「~に」という形があります。
たとえば、「あはれなり」という形容動詞の連用形は、「あはれなり」という形と、「あはれに」という形があります。
あはれなりけり の あはれなり は「連用形」です。
あはれに咲く あはれに も「連用形」です。
多くの場合、「けり」「たり」などの「連用形接続の助動詞」が下に続く場合は「~なり」になります。
一方、「泣く(動詞)」「をかし(形容詞)」「きよらなり(形容動詞)」といった「用言」が下に続く場合は、「~に」になります。
あながちなり (強ちなり)
①強引だ
「強ちなり」と書きます。
漢字をイメージできれば意味はそのままの形容動詞です。
連用形「あながちに」の形で、「あながちに選ぶ」などと用いられることも多いです。
その場合、記述問題であれば「強引に選ぶ」などと訳せればよいですが、選択肢だと、「しいて選ぶ」など、かみ砕いた日本語になっていることもあります。
あはれなり
①しみじみと心打たれる
②趣深いように感じる
古語では、「あはれ」という感動詞が、言葉にならない感慨を示しました。それが形容動詞になったものが「あはれなり」です。
同じように「趣がある」と訳す言葉に「をかし」という形容詞がありますが、「をかし」は、客観的な知的好奇心であり、「あはれなり」は主観的な感慨だと言われます。
「ねえ、みんな聞いて。これ面白いと思うでしょ」というニュアンスであるのが「をかし」であり、「誰にもわからないくていいけれど、言葉にならないほど感慨深い」というのが「あはれなり」なのです。
主観的な感慨を示すことから、「あはれなり」は悲しい場面で使用されることが多く、そのまま「悲しい」と訳すこともあります。
いたづらなり (徒らなり)
①役に立たない・無駄である
②むなしい・はかない
③することがない・暇である
「いたづら」ということばが、「目的をもって事に及んでもうまくいかないこと」や「何かの目的に使おうとしても役に立たないこと」を意味します。
「徒然草」の「徒」であることからも、「特にこれといってすることがない」という意味と結び付けておきましょう。
余談ですが、「生徒」の「徒」もこの意味です。何か目的をもって研究に打ち込むことを「学生」と言い、これは大学生以上を意味します。中学生と高校生は、「これだ!」ということを決めずに、いろいろやってみる時期なのですね。つまり、「これだ!」という研究対象を決める前段階の時期なので、「生徒」と呼ばれます。
おろかなり (疎かなり)
①いいかげんだ・おろそかだ
「疎か」という漢字は、現代では「おろそか」と読みますね。古語では「おろか」と読むことがあり、その意味での形容動詞です。
「愚かなり」と書くこともあり、その場合は「思慮が浅い・ばかだ」と訳します。
とはいえ、ひらがなで「おろかなり」と書かれていることが多く、「疎か」の意味なのか「愚か」の意味なのか注意が必要ですが、問題として問われているものはほとんど「疎かなり」のほうの意味です。
なお、「いいかげんだ」の意味になる「おろかなり」は、下に打消表現を伴って、「いいかがげんではない」「いいかげんには~しない」という文脈で用いられることが多くなります。
きよらなり (清らなり)
①美しい
②気品がある
「けがれなき美しさ」「第一級の美しさ」を意味します。
「きよらなり」の「ら」は、「本質的な状態」を意味しています。「本質的に美しい」ということですね。
似た言葉に「きよげなり」がありますが、「きよげなり」の「げ」は、「気」であり、見た目を意味します。「見た目が美しい」ということです。
そのことから、「きよらなり」と「きよげなり」では、「きよらなり」のほうが上級の美しさになります。
『源氏物語』や『枕草子』では、「きよらなり」を使用する人と、「きよげなり」を使用する人は明確に区別されており、同じ人物にこの二語を混同して使用することはまずありません。
ことなり (異なり・殊なり)
①(他と)違っている・風変りである
②特別である・格別である
他と比べて異なっているようす、また際立っているようすを意味します。
①であれば「異」の漢字を用い、②であれば「殊」の漢字を用いますが、実際にはどちらもひらがなで表記されることが多いです。
注意が必要なのは、
「~うたふことならず~」「~行くことにぞありける」
のように、漢字でいえば「事」に置き換えられるものに関しては、形容動詞ではないということです。
漢字で書くなら「事」になる「こと」は、何かの状態や性質を形容しているものではなく、単純な名詞(体言)であるので、「事(こと)」という体言に、断定の助動詞の「なり」がついているということになります。
「異」であれば「違っている」こと、「殊」であれば「際立っている」ことを意味しており、これらは何かの状態や性質を形容していることになるので、「ことなり」で一語の形容動詞と考えます。
つれづれなり (徒然なり)
①することがない・退屈だ
②所在ない
みそかなり (密かなり)
①ひそかだ
古文では、仮名文体の文章では「ミソカ」と言い、漢文訓読体の文章では「ヒソカ」と発音されました。中学生高校生が扱う文章では仮名文体のほうが多いので、「みそかなり」と書かれるほうが多くなります。
しかし、現在は「ひそか」と言いますから、このことばに関しては、仮名文体の「みそか」という言い方はすたれていったことになります。
なお、月の満ち欠けの最終日に、月が見えなくなる状態を「晦日(みそか)」といいます。そもそも語源が近いこともあるのでしょうが、この月が籠る状態と、「みそかなり」という形容動詞は、掛詞で用いられることがあります。
むげなり (無下なり)
①まったくひどい・最低だ
②論外だ
③身分が非常に低い
④(連用形で用いて)並外れて・非常に
これより「下」が「無い」ということなので、「最低だ」と考えておけばよいです。
「やむごとなし(高貴だ)」という形容詞がありますが、それとこの「むげなり」は対義語のような関係にあります。
形容動詞の連用形は「~なり」と「~に」の2つがありますから、「むげなり」の連用形は「むげなり」と「むげに」の2つがあることになります。
もともとは「最低」ということなので、「非常に悪い」というニュアンスがあるのですが、連用形「むげに」の形で別の言葉に係っていくと、「非常に・むやみに・やたらに・一途に」というように、「悪い」の意味を持たない言葉として使用されていきました。
そのことから、「最低」のニュアンスがなく、「非常に・むやみに・やたらに・一途に」の意味で用いられる「むげに」は、本来の意味が失われており、また他の活用形よりもずっと使用頻度が多いこともあり、形容動詞ではなく「副詞」として扱われています。

九州のほうに行くと、今でも「むげねえ」という言葉が残っています。子どもが転んでしまった泣いているなど、とてもかわいそうな状況で「むげねえなあ」などと言います。これは「むげなり」の名残ですね。
をこなり (痴なり)
①ばかげている・愚かだ
古くは「うこ」という語があり、「痴」または「愚」の字を当てたようです。そのためもともとは「うこなり」であったようですが、中古の文献では「をこなり」になっています。
漢字から推察できるように、「ばかばかしいこと」「愚かなこと」を意味します。
「をこがまし」という形容詞もあるので、セットで覚えておきましょう。「がまし」はもともと「騒がしいこと」を意味する「カマ」ということばからできていますので、「をこがまし」というと、「見るからにはっきりとばかげている」というニュアンスがあります。近世に入ると、「見るからにばかげているほど行き過ぎた行動を取る」ことを「をこがまし」と言うようになっていきました。現代に残っている「厚かましい」という意味の「おこがましい」はこの用法ですね。

現代に、「尾籠(びろう)な話で恐縮ですが」という言い回しがあります。「尾籠な話」というのは、下品な話、無礼な話、という意味合いなのですが、この「尾籠」は、もともと「をこなり」の「をこ」の当て字として「尾籠」と書いたものです。鎌倉時代に入ると、これを訓読みして「びろう」と言うようになっていったのですね。
『平家物語』には、
殿の御出に参り逢うて、乗物より降り候はぬこそ尾籠に候へ
という一節があります。
この時代にはもう「びろう」と読んでいたようです。ここでは「無礼」という意味で使用されていますね。
「続く・つながる」という意味の動詞「連る(つる)」が重なり、「連れ連れなり」となったものです。
「これ以上続いてほしくないと思う事柄が単調に続いてしまい、変化を期待しているのにそれが果たされない状態」を意味します。
「いたづらなり」と同じ漢字を使用することがあり、意味もけっこう似ていますが、「いたづらなり」のほうは、「価値があってほしいものに価値がないさま、なくなったさま」を意味するのに対し、「つれづれなり」は、「価値がない時間が単調に続いていくさま」を意味しています。
そのため、「いたづらなり」のほうは、何らかの期待をかけた「人・モノ」に対して、それらがいなくなったり、無駄になってしまったりする際に用いられやすいです。
一方で、「つれづれなり」は、そもそも期待すべき「人・モノ」が存在していない状態に使用することが多くなります。