〈問〉傍線部を現代語訳せよ。「上達部」「僧綱」はそのままでよい。
それを二つながら持て、急ぎまゐりて、「かかること侍りし」と、上もおはします御前にて語り申し給ふ。宮ぞいとつれなく御覧じて、「藤大納言の手のさまにはあらざめり。法師のにこそあめれ。昔の鬼のしわざとこそおぼゆれ」など、いとまめやかにのたまはすれば、「さは、こは誰がしわざにか。すきずきしき心ある上達部、僧綱などは、誰かはある。それにや。かれにや」など、おぼめき、ゆかしがり申し給ふに、
現代語訳
それを二つとも持って、急いで参上して、「このようなことがありました」と、上【一条天皇】もいらっしゃる御前で語り申し上げなさる。宮【定子】は、たいそうそっけなく御覧になって、「籐大納言の筆跡の様子ではないようだ。法師の筆跡であるようだ。昔の鬼の仕業と思われるよ」などと、とても真面目におっしゃったので、(籐三位は)「そうであれば、これは誰の仕業であるのか。趣味に凝っている心がある【風流心がある】上達部、僧鋼などは、誰がいるのか。その人であるか。あの人であるか」などと、まごつき、聞きたがり申しなさると、
傍線部説明
すきずきしき
「好き好きし(すきずきし)」は、「色恋に一途である」という意味で使われることが多く、その場合圧倒的に男性に対して用いられる。いわば「女好き」である。ところが、「女のことばっかり考えていて嫌ねえ」という否定的な感覚ではなく、「感情を大切にする人」というようなニュアンスであり、肯定的な文脈で用いられやすい。そのことから、女性に対してだけではなく、「風流・風雅・趣味」といったものに凝っている様子を示すようにもなった。
以上のことから、他人に対して用いる場合は、〈①好色〉〈②趣味人・風流人〉のどちらの意味でも使うが、いずれにせよ、さっぱりした肯定的評価になりやすい。
自分に対して用いる場合は、「自分、物好きっスから……」というように、謙遜の気持ちを踏まえて、「物好き」と訳すことが多い。
かは
「かは」は〈反語〉になることが多いので、反語で訳してみると、「誰かいるのか、いや、いるはずがない」のようになる。ところが、ここでは、直後に「その人? それともあの人?」というように推測しているので、その推測の前に、「いや、いない」と断言するのはおかしなことである。そのことから、この「かは」は〈疑問〉である。ただし、「かは」を〈疑問〉で用いる場合は、ただの疑問ではない。すなわち「質問」ではない。これは、「~か? (うーむ……わからん)」という、「容易には答えられない疑問」「解答不能の疑問」なのである。
このように、「やは」「かは」は〈反語〉になることが多いが、常に反語とは限らない。〈疑問〉になることもあるのである。そして〈疑問〉になる場合は、容易に答えが出ない問い、答えることができない問いになっていると考えてほしい。

風流心のある上達部、僧綱などは誰がいるのか。いや、いないはずだ。
などと訳してしまうと、間違いだということです。
補足説明
ながら
「ながら」はそもそも、「本性のままで」「本来のあるがままで」という意味である。そこから、
〈①持続〉~のままで・~したまま
〈②全部〉~みな・~ともに
〈③動作の並行〉~ながら・~つつ
などの用法が生まれた。中古に入ると、「ながら」の前件から当然予想されることに反する事柄が後件にくることが増えてきた。「行かむと言ひながら行かず」というような表現である。このような表現は、「けれども」と訳すことができるので、
〈④逆接〉~けれども・~ながらも
という分別がなされている。現在用いられる表現を例に挙げると、「僭越ながら挨拶申し上げます」などがある。これは、「出すぎた行為ではあるけれども、挨拶申し上げます」ということである。
さて、ここでは、〈②全部〉の用法である。「最初に届いた文」と、「籐三位の書いた返事に対する返事」の二つを両方とも持って、急いで上の御前に参上したのである。
語り申し
この「申す」は、形式的には補助動詞だが、「発言する」という本来の意味が失われていないので、本動詞ではないと言い切ることもできない。曖昧事例であると考えよう。
たとえば「文を送り申す」などであれば、「発言する」という意味がなくなっているので、その場合は「送る」を補助する〈補助動詞〉である。
つれなく
「連れ無し(つれなし)」は、今でも使用するので理解しやすいだろう。「無関心だ」「冷淡だ」「平然としている」という意味で、サザンの歌によく出てくる「ツレナイ」は、まさに「冷たい素振りでそっぽ向いてるあの娘」というニュアンスで用いられている。
まめやかに
「まめやかなり」は、「マメ」は「誠実に物事に対する様子」であり、「ヤカ」は「いかにも~のように感じられる」という意味である。人に対しては、「真面目である・誠実である・実直である」などと訳す。物に対しては、「本格的である」と訳す。ここでは〈中宮定子〉の様子に対して用いているわけだから、「真面目・誠実・実直」などの訳になる。
のたまはすれ
「宣まはす(のたまはす)」は、「のたまふ」に〈尊敬〉の助動詞「す」がついたもの。「のたまふ」よりも敬意が高い。中古文学では、天皇・上皇・皇后・中宮といった人物にしか使用されない〈最高敬語〉の扱いである。
「のたまはすれば」で、いったん文脈が区切られるが、後件の用言は「~申し給ふ」である。つまり、「ば」を屈折点として、前件では〈最高敬語〉「のたまはす」が用いられ、後件では〈一般的な敬語〉「給ふ」が用いられている。ということは、「ば」の前後で主体者が変更されていると考えられる。

前の場面ではあまり尊敬語がついていなかった〈藤三位〉ですが、この場面では「給ふ」がついています。
天皇のいらっしゃる場所に参上したことにより、「そこに入れるほど偉い人」として扱ったのかもしれませんね。
このように敬語は、同じ人物に対し、〈場面A〉では使われていないが、〈場面B〉では使われている、というようなことが起きます。
場面場面の相対関係で、使用されたり、されなかったりします。
あくまで「言語」なので、厳格なルールはありません。柔軟に考えましょう。