〈問〉次の傍線部を現代語訳せよ。
いと心もとなくおぼゆれど、「なほ、いとおそろしういひたる物忌みしはてむ」とて、念じくらして、またつとめて、藤大納言の御もとに、この返しをして、さし置かせたれば、すなはち、また返ししておこせ給へり。
現代語訳
とてもじれったく【気がかりに】思われるが、「やはり、とても恐ろしいと言っている物忌みを最後までしよう」と思って、我慢して過ごして、また翌朝、藤大納言の御もとに、この(歌に対する)返事【返歌】をして、置いておかせたところ、(籐大納言は)すぐに、また返事【返歌】をして送ってきなさった。
傍線部の解説
すなはち
「すなはち」は、空間的、時間的に連続している状態を意味します。
◆時間的な意味で使用していれば「すぐに」と訳します。
◆空間的な意味で使用していれば「そのまま」と訳します。
ここでは、文脈上「時間的な意味」で使用されていますので、「すぐに」と訳しましょう。
おこせ
「おこせ」は動詞「おこす」の連用形です。
「おこす」は「遣す」と書きます。
同じ漢字を使用する動詞に「遣る(やる)」があり、意味はどちらも「送る」というものなのですが、「やる」の場合は「こちらから向こうに送る」ということで、「おこす」の場合は「向こうからこちらに送る」ということになります。
「遣る(やる)」 (こちらから向こうに)送る
「遣す(おこす)」 (向こうからこちらに)送る
「こちらに送ってくる」の意。ベクトルが逆になる動詞が「遣る(やる)」であり、これは「向こうに送る」の意。
ここでは、藤大納言(向こう)から、藤三位(こちら)に返事を送ってきたことになります。
給へ
「給へ」は尊敬語「たまふ」の已然形です。
「お~になる」「~なさる」と訳しましょう。
り
「り」は「存続・完了」の助動詞「り」の終止形です。
完了・存続の助動詞「り」は、〈サ行変格活用の未然形〉か〈四段活用の已然形〉にのみ接続します。
上代の万葉仮名では、四段活用の已然形と命令形に区別があり、「り」は命令形に接続していたことがわかっていますが、中古以降の四段活用は已然形と命令形が同じ形になったため、どちらに接続しているのかわからない状態になっています。
とはいえ、一般的には四段活用に「り」が続く場合、「已然形」に接続するとされているので、試験では「已然形」と解答するほうが無難です。
さて、〈サ変の未然形〉〈四段の已然形〉は、どちらも「e音」になりますね。
つまり、「存続・完了」の助動詞「り」は、直前が必ず「e音」になるということです。
この「り」はそもそも「存続」の意味ですので、「~ている」と訳せるときは「~ている」にしておきましょう。「~ている」が不似合いの場合は、「~た」にしましょう。
補足説明
▼ 「心許無し(こころもとなし)」は、「心を置くべき拠り所がない」というニュアンスから、「じれったい・不安だ・待ち遠しい」などと訳す。ここでは、〈上の御前〉や〈宮〉に「早く伝えたい」と思っていることにより、今この瞬間に二人が近くにおらず、さっさと伝えられないことを、じれったく思っているのである。
▼ 受験生はよく勘違いをしているが、「おぼゆ(覚ゆ)」は敬語ではない。「おぼす(思す)」と混同していることにより、「おぼゆ」を「お思いになる」と訳してしまうことがあるが、「おぼゆ」は単純に「思う」という意味である。
ただし、「ゆ」は上代では「自発」の意味であるため、終止形が「ゆ」で終わる動詞は、そもそも自発的意味を内包している。そのため、たとえば「見ゆ」であれば「見る」ではなく「見える」と訳したほうがよい。「おぼゆ」も同様に、「思う」よりも、「(自然と)思われる・感じられる・思い出される」と訳したほうがよりよい。
▼ 「果つ(はつ)」は「終わる・尽きる」の意味だが、補助動詞として他の動詞につくと、「完全に~する」「最後まで~する」「~(し)終わる」「~(し)終える」という意味になる。
▼ 「念ず(ねんず)」は、大きく分けて、「祈る」「我慢する」の二つの意味があるが、「念じくらす」「念じはつ」「念じ過ぐす」などの複合語は、ほぼすべて「我慢」のほうの意味である。複合語で唯一「祈る」ほうの意味になるのは「念じ入る」くらいである。「念じ入る」は「ひたすら祈る」「一心に祈る」などと訳す。
▼ 「暮らす(くらす)」は、読んで字のごとく、「日が暮れるまで時を過ごす」という意味である。そこから転じて、「月日を暮らす」「生活をする」という現在の意味になっていった。本文でも、文脈上、何日も生活したわけではないことは明らかであるから、「一条天皇と中宮定子のところへ報告に行きたいという、はやる気持ちを我慢して、日が暮れるまで過ごした」と解釈するのが適当である。
▼ 「差し置く(さしおく)」は、「置く」の意味であり、「そのままにしてほうっておく」の意味もある。〈藤三位〉は、和歌を送ってきた人物を〈籐大納言〉だと「判断」し、使者を介して、〈籐大納言〉のもとに、〈返事〉を置いておかせたのである。〈和歌〉に対する「返し」は、常識的に〈和歌〉であるから、ここでは「返歌」と訳しているが、単純に「返事」と訳してもよい。
▼ 「~思ふに~」「~おぼゆれど~」などの前後では、主体の変更はされていない。それは、「思ふ」「おぼゆ」という語が、自己完結している営為であるからである。
接続助詞「を」「に」「が」「ど」「(已然形)ば」の直前に、「言ふ」「問ふ」などの〈他者に投げかける動作〉があれば、接続助詞で転換し、後件は〈その動作を投げかけられた人物〉が主体となりやすい。
しかし、この本文のように、「思ふ」「おぼゆ」などは、他者を必要としない。そのため、主体の変更が起きにくい。この本文でも、しばらく〈籐三位〉が主体者としての文が続く。
▼ 文の最後に、「おこせ給へり」と、尊敬表現が付されていることに着眼しよう。筆者は、そこまでずっと〈籐三位〉に尊敬表現を用いていない。これがもし、
A ~ て、 ~ B ~ て、 ~ C 給ふ。
であれば、最後の「給ふ」が、「て」で遡って、AにもBにも影響している、つまり、AにもBにも敬意が込められていると判断することができる。しかし、
A ~ に、 ~ B ~ ば、 ~ C 給ふ。
という場合、そうはいかない。接続助詞「を」「に」「が」「ど」「(已然形)ば」は、そこでいったん文の接着関係を切ってしまうので、敬語の影響力がそこを超えていくことはできないのである。つまり、「(已然形)ば」の前後を見て、どちらかに尊敬語がある、というような場合、人物の「差」があると判断すべきなのである。
ここでも、「ば」の前までは〈籐三位〉が主体であるが、「ば」の後件は、〈籐三位〉ではない人物が主体であるということになる。さらに言えば、客観的に、〈籐三位〉よりも身分が高い人物が主体になるはずである。以上の考察により、「返ししておこせ給へり」の主語は〈籐大納言〉である。