とくきこしめさせばや (枕草子)

「いとあさましうねたかりけるわざかな。誰がしたるにかあらむ。仁和寺の僧正のにや」と思へど、「よもかかることのたまはじ。藤大納言ぞ、かの院の別当におはせしかば、そのし給へることなめり。これを、上の御前、宮などに、とくきこしめさせばや」と思ふに、

      

「とても驚きあきれて憎らしい行いだなあ。誰がしたことであろうか。仁和寺の僧正がしたことであろうか【仁和寺の僧正の筆跡であろうか】」と思うが、「(仁和寺の僧正は)まさかそんなことはおっしゃるまい。藤大納言だ、あの院【円融院】の別当でいらっしゃったので、その人がしなさったことであるようだ。これを、上の御前【一条天皇】、宮【中宮定子】などに(対して)、早くお聞かせしたいものだ」と思うので、

【補説】

「けり」は、ここでは、ついさっき(送られてきた和歌を読んだ時)の出来事をめぐって用いているので、「伝聞的過去」ではない。したがって「詠嘆」で取るほうが妥当。「いやー、さっきこれを読んだ感情としては、驚きあきれたし、にくらしいよ! そう感じさせる行為だよ!」というニュアンスである。「けり」は基本的に、「詠嘆」であっても、時制としては過ぎたことに対して使用されているので、訳には、「~たのだなあ」「~たものだ」という具合に、過去的なニュアンスが入っていたほうがよい。

ただし、たとえばこの場面で言えば、まさについさっきのことに対して使用しているので、「憎らしいなあ」といったように、「た」を入れずに訳しても許容される。
▼ 「仁和寺の僧正のにや」の「の」は、二通りの解釈が可能。下に、「手」が省略されているのであれば、「僧正の筆跡」となるので、〈連体修飾格〉の格助詞になる。下に、「したること」が省略されているのであれば、「僧正がしたこと」となるので、〈主格〉の格助詞である。
▼ 「よもかかることのたまはじ」については、課題文では「よに」になっているが、原本は「よも」であるようだ。「よに」は誤植か?
  「よも~じ」は、「まさか~まい」と訳す頻出構文である。「よも」と「じ」はセットになりやすいという慣用的な感覚では、「よも」が正しいと考えられる。ただし、ここが「よに」であれば、「決してそのようなことはおっしゃるまい」という訳になり、十分に文意が通用するので、間違いとは言い切れない。
▼ 「宣ふ(のたまふ)」は、「言ふ」の尊敬語であり、「おっしゃる」と訳す。それを〈打消推量〉の「じ」で否定するのであるから、「おっしゃるまい」「おっしゃらないだろう」などと訳せるとよい。「~まい」という表現は、〈打消意志〉〈打消推量〉の両方に通用するので便利である。
▼ 「〈体言〉におはす」という場合、「おはす」は「あり」の尊敬語であり、実体は「あり」なのであるから、「にあり」と言っていることと同構造になる。したがって「に」は断定の助動詞「なり」の連用形である。「存在する」という本来の意味は薄れ、「〈体言〉でいらっしゃる」と訳すことになるので、「おはす」は補助的な使われ方ということになる。すなわち「補助動詞」の用法である。
▼「上(うへ・かみ)」は天皇のこと。枕草子では〈一条天皇〉を指し、「うへ」と読むことのほうが多いが、どちらでも間違いではない。「宮(みや)」は、枕草子では通常「中宮定子」を指す。
▼ 「疾し(とし)」は「早い・速い」ということ。「こんな憎たらしい立文が届いた」ということを、早く〈一条天皇〉と〈中宮定子〉に伝えたいのである。
▼ 「きこしめす」は「聞く・聞き入れる」の尊敬表現なので、「お聞きになる/お聞き入れになる」などと訳す。ここではそれに〈使役〉の助動詞「す」と〈願望〉の終助詞「ばや」がついているのであるから、「お聞きにならせたい」「お聞き入れにならせたい」と訳すことになる。ただし、どちらも日本語としてはあまりこなれていないので、「お耳に入れたい」などと意訳したほうが、表現としては成熟している。
▼ 尊敬語「給ふ」は、〈本動詞〉ならば「お与えになる・くださる」と訳す。他の語に補助的につく〈補助動詞〉ならば、「お~になる」「~なさる」と訳せばよい。「行き給ふ」なら、「お行きになる」「行きなさる」といったようにである。ここでは、動詞「す」に付いている〈補助動詞〉なので、「しなさる」と訳せばよい。「おしになる」という訳は何だか変なので、不採用。
▼ 「給へる」の「る」は、〈完了・存続〉の助動詞「り」の連体形である。これを〈受身・尊敬・自発・可能〉の助動詞「る」と混同してしまう受験生が多いが、見分け方は意外と簡単である。
  〈完了・存続〉の「り」は、または「サ変の未然形」または「四段活用の命令形(已然形)」にしかつかない。つまり、「e音」にしかつかない。
  一方、〈受身・尊敬・自発・可能〉の「る」は、「四段・ラ変・ナ変の未然形」にしかつかない。つまり、「a音」にしかつかない。
  そのため、「ら・り・る・れ」というひらがなが助動詞であるというところまでわかったら、上の「音」を考えるとよい。「e音」についていれば、その「ら・り・る・れ」は〈完了・存続〉の「り」である。
  さて、ここでは、「る」の上の音は、「たまへ(え)ー」であるので、〈完了・存続〉であることがわかる。「和歌を詠んで立文にして送る」という行為はすでに終わっているのであるから、ここでは〈完了〉の意味として訳す。
▼ 「なめり」は、〈断定〉の助動詞「なり」+〈推定〉の助動詞「めり」である。「なるめり」と接続したと言われるが、「なりめり」の説もある。「であるようだ」「であるように見える」などと訳す。
  いずれにせよ、「めり」の直前が撥音便化し、「なんめり」と読むようになった。平安時代に「ん」の文字はないので、表記上は「ん」はないことになる。この「なめり」のように、撥音便化した「ん」が表記されていない状態を、「撥音便無表記」という。
 右のケースと同じような過程を経て、「ななり」という表現も発生した。これは〈断定〉の助動詞「なり」+〈伝聞・推定〉の助動詞「なり」である。「なるなり」または「なりなり」という接続において、後ろの「なり」の直前が撥音便無表記形となり、「ななり」となった。読みは「なんなり」である。
どうやら、万葉集のころは「なりめり」「なりなり」の「り」がそのまま撥音便無表記化したようであるが、後代の人間たちは、【「なりめり」の「なり」がいったん「なるめり」と「連体形」に転じて、そのうえで「なんめり」と読むようになり、「ん」が表記されなかった。】と推論したようである。つまり、  
な り  + め り
     ↓(連体形に活用)
な る    め り 
     ↓
    な ん め り 「ん」は平安末期まで存在しないので、
            表記上は「なめり」
と推理したのである。その「推理」がある程度の合理性をもって支持されたために、【推定の「めり」、伝聞推定の「なり」の直前は、〈終止形〉だが、ラ変の場合は〈連体形〉なのである。】というルールとして定着してしまった。それゆえ平安後期になると、「なるめり」「なるなり」といったように、そもそも連体形で表記する場合すら出てくるのである。
 以上のことから、「なめり」や「ななり」の発生過程には二つの説があるが、試験において、「なめり」「ななり」の「な」の文法的説明を求められた場合、「連体形活用語尾の撥音便無表記」と答えておいたほうが無難である。
〈断定〉と〈伝聞・推定〉をセットにする際、語順は〈断定〉→〈伝聞・推定〉になる。推定の「めり」は「見あり」であり、伝聞・推定の「なり」は「音あり」であり、両者とも、意味的に一度終了した文に対し、最後に付すべき助動詞なのである。「~である、という見た目がある」「~である、という音(噂)がある」というニュアンスで、事実上、「めり」「なり」の直前で文は区切られているのだ。要は「オマケ」なのである。だから文の最後に付く。