平安時代末期から鎌倉時代前期の武将です。
お父さんは三浦義明です。お兄さんは三浦義澄です。
父義明の本拠地である衣笠城の南東にある佐原城を本拠としたため、佐原義連ともいいます。
北条義時や結城朝光らとともに頼朝の寝所を警護する11人の家子に選ばれています。
平家討伐の合戦における、一の谷の戦いでは、鵯越の逆落としの先頭となりました。
奥州合戦の功績で、陸奥国会津に所領を得ています。孫の光盛は蘆名を称し、蘆名氏は長く会津を治めました。

わしの息子じゃぞ。

わしの弟だ。

一の谷の合戦での「鵯越の逆落とし」では、一番最初に駆け降りたと言われている。

三浦にとっては馬場だ。

そんなときわしは馬を背負って降りていた。

あるとき、頼朝が納涼を兼ねて三浦に行くんだ。
武士たちはことごとく下馬して平伏するんだけど、上総広常は馬を下りずに会釈するだけだった。
これを注意したのが三浦義連。

一人だけ馬を下りないって、無礼ですよね。

もともと、上総広常って、頼朝さんが協力を呼び掛けた時もすっげえ遅れて来たりして、「ちょっと、何なの?」って感じだったしな。

そのときの宴でも、ひと悶着があった。
岡崎義実が、頼朝の水干がほしいと言ったら、「いいよ」ともらえるんだね。義実は大喜び。

義実はわしの弟。

舞台はわしの家。

そうしたら、上総広常が、「そういう美服は、わしのようなものがもらうものであって、老いぼれがもらうものではない」って暴言を吐くんだ。もちろん岡崎義実は激怒して、けんかになっちゃう。

嫉妬心ゆえの暴言だろうな。

うわあ・・・やめてほしい。

そうしたら、義連が、「頼朝さんがいる前でけんかなんてダメだよ」って叱って、「言いたいことがあるならあとで聞くよ」って、その場をおさめるんだ。

まったくもう。

お見事!

のちに、北条時房が元服する時に、頼朝は三浦義連を烏帽子親に任命するんだ。
義連は「そんな身分じゃない」って辞退するんだけど、頼朝は、広常と義実のけんかをいさめたことをよく覚えていて、さらにお願いするんだね。

もうそうなると断る理由もない。

すごい信頼だな。

頼朝の上洛にも付き添い、左衛門尉に叙せられている。

ああ~。
武士が官位をもらうとしたら衛門府って言うもんな~。
ところで、「北条時房」の件だけど、義連が烏帽子親になったんなら、「時連」とかになるんじゃないの?

「時連」だったんだけど、のちに平知康という人が、頼家の蹴鞠の会に来たときに、こんなふうに言ってくるんだ。
「連」って、「銭を束ねる」ってこと? それとも、紀貫之の「つら」にあやかってるの? もっといい名前にしたらいいのに。

人の名前に対して、すっげえ失礼なやつだな。

頼家も「そうだそうだ」って感じだったのかもしれないね。
その後「時房」に名前を変えている。

でも、政子さんはむっちゃ怒ってた。

もともと平知康は、義経をそそのかして頼朝に弓を引かせた人物とうわさされていたから、鎌倉に入ってくること自体、政子にとっては嫌だったんだろうね。
さらに、頼朝のお願いで烏帽子親になった三浦義連の「連」を貶めてきたわけだから、いわば頼朝の判断を貶められているようなものだ。
「平知康みたいなどうしようもないやつを近づけるんじゃねえ」って感じで、頼家にブチ切れてた。

そりゃそうだ。

その後の義連については、没した年にも様々な説があって不確か。
横須賀にも会津にもお墓があるから、行き来して過ごしていたのかもしれないね。