北条邦時は、時行のお兄ちゃんだよね。
そうだよ。
なのに、どうして邦時は弟の時行に対して「早くお前が(父の)後を継いで差し上げろ」って言っているの?
お兄ちゃんが継ぐんじゃないの?
時行は、「兄上が継ぐのが順序でしょう」って言っているよ。
(*『逃げ上手の若君』の描写です)
次のコマで、邦時は、「側室の子の私が継げば争いの元だ」って言っているよね。
「正室の子」がいて、しかも年齢が同じくらいなのであれば、「正室の子」が優先されるのが一般的な考え方なんだ。
ただ、高時の正室の子どもは資料のうえでは確認されていないから、邦時が「継ぐべき人」の有力候補なんだね。
この場面は、「お前が次の執権やれよー。お前のほうが向いてるよー」って冗談まじりに押し付けている描写なんだね。ただ、邦時は時行の「逃げる才能」を評価しているから、けっこう本気で言っているように聞こえるね。
ちなみに時行のお母さんは正確にはわかっていないんだけど、推定では「新殿」という女性だと考えられていて、この人も高時の側室。
だから時行は、「兄上が継ぐのが順序でしょう」ってきっぱり断っているんだね。
側室ってなんだ?
正式な妻を「正室」と呼ぶんだ。それに対して、「側室」は「正室」以外の妻のことを意味するよ。
「正式な妻」と「正式ではない妻」がいるの?
まあいるのよ。
正式ではないと言うと誤解があるんだけど、複数いる妻の中から「特にこの人」という妻を一人決めることになっていたんだよね。
なんのために?
位の継承や相続のためだよ。
もうちょいくわしく。
奈良・平安時代の貴族は一夫多妻だったから、「妻」が複数いたんだね。
当時の人たちは「血筋」にとてもこだわったから、権力者の血を絶やさないために、子どももたくさんほしいと思ったんだ。このことは鎌倉時代以降の武家社会も似たようなもの。
当時の律令制度(法律みたいなもの)では、蔭位という制度があって、お父さんが位の高い役職についていると、その子どもはいずれ一定以上の位や役職をもらえたんだ。
なんともうらやましい。
でも、子どもがたくさんいすぎたら、全員にほいほい高い位はあげられないよね。
だから、「お母さん」を区別したんだよ。
「正室」を一人だけ決めて、その人以外を「側室」としたんだね。その「正室」の子どもが最も優遇されたんだ。家のあとつぎも基本的には「正室の子ども」だった。
あとつぎのことを「嫡子」というんだ。男子が継ぐので、「嫡男」とも言うよ。
「正室」は「嫡子」を産む人なので、別名「嫡妻」ともいうんだ。
でもなんで「人」なのに「室」っていうの?
当時はそもそも「名前」を呼ぶのはよっぽど親しい場合だけなんだ。
だから、「役職名」とか、「その人のお父さんの役職名」とか「部屋の名前」とか「その人のいる方角」とかで呼ぶんだよ。
「室」というのはまさに「部屋」のことなんだけど、「部屋の名称」がそのままそこに住んでいる人を意味したんだね。
「局」とか「坊」とかもそうだよ。「局」は「女房の住まい」で、「坊」は「僧侶の住まい」のこと。
平安時代の貴族なんかは、「正式な妻」を「母屋(中心となる建物)」の「北側の建物」に住まわせたから、「北の方」といったら「正式な妻」を意味したんだね。
自分の場合、「出窓」って呼ばれるようなもんか。
そうだね。
きみの場合は、「出窓」か「膝上」だろうね。
冬なら「ストーブ前」か「こたつ」。
まあそういう感じ。
ぼくの場合は、「毛布」だな。
よし。しばらく「南の出窓」でいこう。
さて、武家が台頭していくと、この制度はだんだん形だけのものになっていくんだ。
形だけというと?
基本的にはお父さんを基準に考えるからね。
正室の子であろうが、側室の子であろうが、お父さんが同じなら「嫡流」とみなされることが多かった。
とにかくお父さんの血筋を残すために、妻は複数いたほうがいいという考えがあったんだね。
もちろん、正室の子と側室の子が両方いれば、正室の子が優先される場合は多かったよ。
平安末期とか鎌倉初期は、「側室」の子を「正室」の養子にして、形式上は「正室の子」として育てるという方法も確認されているんだ。
でも、そういうことにはそれほどこだわらない家もあったりして、平安時代に比べれば、鎌倉時代では、「正室の子でなければ認めないぞ」という雰囲気は薄くなっていくんだ。
時代の流れだな。
「誰が継ぐのか」というのは、常に争いの種だから、周りの人も「どちらの味方をするべきか」なんていうことに随分悩んだみたいだね。
武家はけっこう兄弟で合戦しているからね。
権力奪取のための暗殺なんかも多かったよ。
権力さえなければ身内で戦わずに済んだものを・・・