源太(梶原景季)は、わしのかわいい息子だゾイ。
景時も息子の悪口だけはさすがに言わないんだな。
『平家物語』のエピソードでは、佐々木高綱との「先陣争い」が有名だね。
木曾義仲を討つために、源頼朝は、弟である範頼と義経に上京を命じる。
範頼は北陸側から、義経は東海道から京を目指すんだけど、梶原景季は、出発前に頼朝に馬をもらいに行くんだ。
頼朝は、「いけずき」「するすみ」という二頭の名馬を持っていた。
景季は「いけずき」をほしがるんだけど、頼朝は、「それはいざとなったら自分が乗る馬だ」と言って、「するすみ」のほうを与えるんだね。
ところが、その後、佐々木高綱が出陣のあいさつに来た時に、「いけずきを所望する者はたくさんいるのだが、それをわかっておけよ」と言って、高綱に「いけずき」を与えるんだね。
源太、残念だったな。
でも、源太は、京に向かう途中で、「いけずき」を見つけちゃうんだね。
それで、「オレにはくれなかったのに!」ってムカムカして、佐々木高綱と刺し違えてやろうかと思い始めるんだ。
佐々木高綱と殺し合って、よい侍が二人いなくなって、頼朝さんに損をさせてやるゥ!
なんか、こういうところは血筋だな。
ん?
すると、雰囲気を察した佐々木高綱が、「梶原さんが欲しがったのに、頼朝さんが許さなかったと聞いたから、まして、自分が欲しいって言っても、くれるはずないと思って、いけずきを盗んできちゃった」って言うんだ。
なあんだ。
嘘も方便ってやつだな。
そうしたら、源太は、腹立たしい気持ちがすっかりおさまって、「うらやましい! それなら、オレも盗めばよかった!」って大笑いしたということだ。
このエピソードでかわいそうなのはスルスミだな。
ワイもけっこういい馬なんだけど、やる気なくしたわ。
スルスミのテンション下がってるぞ!
さて、宇治川に到着すると、義経は「川の流れが弱まるのを待とうか」と言う。
それを聞いた畠山重忠は、「この川は近江の水海の末だから、待っても水は引かない」と言って、瀬踏み(馬で川に入って、浅いところを探す作業)を始めた。
そんなとき、武者二騎が、馬を走らせて出てきた。
まあ、前後の文脈から考えて、佐々木高綱と梶原景季でしょうな。
そうだとも。ざぶんざぶん。
高綱は景季に対して、「腹帯がゆるんでいるから締めたほうがいい」と言って、景季は高綱に対して、「水の底に(馬を転ばせる)大綱があるよ。不覚をとるな」と言って、お互いやあやあ言い合って、先陣争いをするんだ。
結果、佐々木高綱が先について、「先陣ぞや!」と大音声をあげて名のったのだ。
超くやしい。
まあ、自分やる気ないしな。
続いて、畠山重忠が対岸につくと、なんだか背中に違和感がある。
何者かが背中にむずとくっついている。
なんと、畠山重忠の烏帽子子である大串重親の馬が流されてしまって、重親は、重忠の背中にしがみついていたのだ。
でも、重忠は、「きみたちはいっつも重忠を頼るねえ」なんていう感じで余裕。
かっけえ。
とりあえず、わしは大串重親を岸辺に投げあげてあげた。
よかったな、大串。ちゃんとお礼言うんだぞ。
すると、大串は、体勢を整えて・・・
どうしたんだ? 丁寧にお礼を述べたのか?
「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治河の先陣ぞや!」と名のった。
背中にしがみついていて、投げあげてもらっただけなのに!?
これにはみんな大爆笑。
大ウケだった。
そんなとき、源太はどうなったんだ?
川の勢いに流され、下流のほうで岸にあがった。
まあ、やる気ないですしおすし。
こうして、宇治川の先陣は佐々木高綱におくれをとったのだけれども、梶原景季は、のちの一の谷の合戦で平重衡(清盛の息子)を捕獲するという武功をあげている。
やるときはやるんだな。
ちなみに、一の谷の合戦では、景季の弟の景高が先陣を切って敵に飛び込んじゃう。
それを助けようと、景季も飛び込んじゃう。景時も飛び込んじゃう。
けっこうがんばって、一回後退するんだけど、景季が戻ってこない。
景時は、「もしかして景季は討たれてしまったのかも・・・」と思って、泣きながらもう一回敵陣に飛び込んで行っちゃう。
え、ちょっと、景時のかっこいいエピソードあるんだな。
子どものことになるといいお父さん。
でも景季は生きていて、親子で大奮戦。
このことは「梶原の二度駆け」といわれていて、都のほうでは案外梶原の人気が高い。
「案外」とかいらないから。
父ちゃん、あのときはありがとう。
このように、平家討伐の戦いで大活躍するんだけど、頼朝の許可を得ずに任官したメンバーの一人が景季だったから、頼朝からは「関東に戻ってくるな」としかられている。
ああ~。
あのときは、頼朝さんがメンバーたちの悪口を散々書いてきたな。
でも、景季は、いっしょにしかれたものの、悪口は書かれてなかったよね。
かえって不気味。
でも、わりとすぐに許されて、奥州合戦にも従軍。
そのときに、頼朝に和歌を献じたりもしている。
和歌?
東国武士なのに和歌が詠めるのか?
意外ですかな?
景季は、平家とたたかっていたときも、箙(矢を入れる容器)に梅の花を挿していたそうで、敵味方問わず「東国の武士なのに風流だなあ」と称賛されたらしい。
シャレオツでしょ。
このように、頼朝には重宝されたんだけど、頼朝の没後、父である景時が鎌倉を追放されてしまう。
くわしくはこちら。
鎌倉を追放された梶原は、一族で京あるいは西国を目指していたようだけど、途中の駿河国で刺客に討たれてしまう。
景季もそこで討たれてしまった。