源頼家 ―武芸に秀でた二代鎌倉殿 強権発動ふせがれた―

人物
源頼家 みなもとのよりいえ

鎌倉幕府二代目の征夷大将軍です。幼名は「万寿まんじゅ」です。

父は源頼朝よりともです。母は北条政子まさこです。

頼朝亡き後、18歳で家督を相続しました。征夷大将軍になったのはその数年後です。

頼家は、それまでの慣習を無視して、自分勝手に判断することが多く、御家人たちはそれに不満を持ったと言われています。ただし、その人物像は北条氏の記録文書によるものなので、実物よりも悪く書かれているのかもしれません。

頼家の独裁をおさえるという目的で、十三人の合議制がしかれています。

頼家は、十三人の合議制がはじまってから3年後に病に倒れました。その際、頼家の後継者をめぐって、頼家の息子(一幡)を支持する比企能員と、頼家の弟(千幡)を支持する北条時政の対立が起こります。

比企氏が滅ぼされる流れで頼家も伊豆に追放され、翌年、頼家は暗殺されてしまいました。

生まれたのは1182年。

平家が滅ぶ3年前だ。

源頼家
源頼家

比企能員ひきよしかずの屋敷で生まれたんだよ。

比企能員
比企能員

生まれたてはかわいかった。

頼家が3歳のときに平家が滅亡。

直後、全国に「守護」「地頭」が置かれ、実質上お父さんの頼朝が全国を統括するような立ち位置になる。

源頼家
源頼家

父ちゃんすげえ。

12歳のときに「富士の巻狩り」という動物を狩るゲームに参加して、鹿をしとめる。頼朝は「おれの後継者にふさわしい」ってたいそう喜んだらしい。

源頼家
源頼家

おれすげえ。

このときの「富士の巻狩り」で、「曾我兄弟の敵討ち」がはたされているよ。

曾我兄弟の敵討ちにかんしてはこちら。

ああ、あの「伊東」の地をめぐった争いか。

北条時政
北条時政

このとき、政子のところに「頼朝が討たれた」という誤報が届いてなあ。

近くにいた源範頼のりよりが、「後にはそれがしが控えておりまする」って言っちゃったらしいんだよね。それって、頼朝が死んだこと前提でしょ。でも実際は生きてた。

だから、範頼はその後、謀反むほんの疑いをかけられて、伊豆いず修禅寺しゅぜんじに閉じ込められちゃった。その後、殺されるんだね。

範頼は、頼朝や義経と同じで、源義朝がお父さんだったんだけど、お母さんの位が高くなかったからか、頼朝レベルとはみなされていなかったんだ。

源頼家
源頼家

伊豆の修禅寺かあ。あんなところに閉じ込められて殺されるなんてかわいそう。

18歳のときにお父さんの頼朝が急死する。

そのまま家督を継ぐんだね。

でも、訴訟を裁くのが強引だったようで、「独裁的」と思われたようだ。

比企能員
比企能員

でもそれ言ってたの北条氏だから、話を盛ってたのかもしれない。

十三人の合議制がしかれるんだけど、すぐに「梶原景時かじわらかげときの変」が起きる。

梶原景時についてはこちら。

源頼家
源頼家

景時は一回謹慎したあとで、また鎌倉に戻ってくるんだよね。

そのとき、景時は「どうやら弟の千幡を将軍に立てる陰謀が存在する」って言ってたんだけど、他の御家人たちが「そんなのない!」って言っていて、結局は景時が言い負けちゃったんだよなあ。

梶原景時
梶原景時

口げんかで勝てなかった。とほほ。

源頼家
源頼家

そうしたら、都に行く途中の景時が、駿河で襲撃されちゃって、滅ぼされちゃった。

きっと、その時からすでに何者かによる「頼家降ろし」の計画ができあがっていたんだろうな。

頼家が景時を必死で守って、追放しなければ、違う未来があっただろうね。

ここで他の御家人の言い分を聞いちゃって、景時を追放したのは、「頼家の最大の失策」と言われているよ。

比企能員
比企能員

その後、頼家殿は、大江広元の屋敷で病気が重くなっちゃう。

なんだか死にそうと思ったらしくて、出家するんだね。

息子の「一幡」に家督を譲ろうかなって言ったんだよ。

一幡のおじいちゃんは私こと比企能員だから、「将軍のおじいちゃんかあ。そうなったらいいなあ」と正直思いました。

源頼家
源頼家

そしたら、誰がしたのかわかんないけど、すでに死んだことにされていて、都には、「頼家が死んだから弟の千幡を将軍にしてね」って手紙が届いたそうな。

その流れで比企氏が滅ぼされて、頼家も伊豆国修禅寺に幽閉されちゃうんだね。

源頼家
源頼家

あ、あそこが修善寺だったか。

範頼をかわいそうとか言ってる場合じゃなかった。

でも、お風呂はいいお湯で気分がよかった。

幽閉された翌年、お風呂で襲撃を受けて、殺されてしまう。

源頼家
源頼家

ババンババンバン言ってる場合じゃなかった。

こうして頼家の弟である千幡が「実朝」になって、鎌倉殿は三代目になっていくのだな。