なんというか、これを読むと実に立派な人であるな。
『吾妻鏡』によれば絶賛の嵐だね。『吾妻鏡』は北条氏が話を盛っているところがあるから、さしひいて考えなきゃいけないんだけど、さしひいてもかなり立派な人物だね。
台風被害が続いた伊豆国で、幕府に借りていたお米も返すことができなくて困り果てた農民たちのところに北条泰時が来て、貸し出しの証文を焼き捨てて、しかもさらにお米をあげたって話が残っている。
わが息子ながらあっぱれだ。
証文を焼いたってところがまたかっこいい。
わしの話がたまたま残っているだけで、実はそういう領主は珍しくなかったんだよ。
そうやって思い上がらないところもかっこいい。
そこにシビレル、アコガレルゥ!
慕われ方が尋常じゃないぞ。
北条泰時の幼名は金剛。
元服の際、源頼朝が烏帽子親となり、「頼」の一字をとり北条頼時となるんだ。
このことからも、頼朝からの期待の高さがうかがえるよね。
でも、頼朝の死後、「泰時」と改称している。改称の理由はわからない。
わしが二代将軍になってから、北条氏との関係は悪化していったから、北条氏をいずれ継ぐ者として、源家と距離をおいたのかもしれないな。
そもそも頼家なんかは、凶作で農民が苦しんでいたときにも蹴鞠で遊んでいたからな。
お米を貸して、貸し出しの証文を焼いた泰時とは比べようもないわな。
ああ~。そういえば台風で各地の農民が困っているらしいってときに蹴鞠してたら、泰時が「蹴鞠は奥が深いものだから、やるのはいいんだけど、農民が困っているときくらいはやめたほうがいいですぞ」って注意してきたんだった。
オレはそのとき、時政や義時に言われるんならまだしも、オレの一個下の泰時に言われたもんだから、「うっせーよ、お前、後輩のくせに、地元帰れよ」って言っちゃったんだ。
泰時さんは、そのあと本当に地元に帰って、農民にお米を貸して証文を焼いたんだぞォ!
「理想の上司」のベスト1とワースト1みたいだな。
泰時が歴史の教科書に登場し始めるのは、「承久の乱」あたりからだね。
おじさんの北条時房といっしょに京に攻め上って、後鳥羽上皇が集めた朝廷軍に勝利する。
オレも行ったぞ。
朝廷側についた弟の三浦義胤と東寺で再開。
承久の乱に勝利したあと、後鳥羽側についた公家や武士の所領を没収して、鎌倉幕府側についた御家人たちにそれを与えるという戦後処理をしたんだね。
多くは西国の荘園だから、京にいるほうが処理しやすかった。それに、朝廷がまた「幕府打倒」の兵を集めたりしないように、見張る必要もあった。
そこで、京の六波羅という場所を拠点にして、泰時と時房がそれぞれ北側と南側に住んだんだね。当時はただ単に「六波羅」と言われていたけど、後世には「六波羅探題」と称された。
かつて、平清盛などの伊勢平氏が住んだところだ。
この「六波羅探題」というものは、鎌倉幕府の出張機関として、非常に重要なものになる。
ここで泰時と時房は、公家の法律とかもたくさん学びながら仕事に励んだらしいね。
京は学ぶものが多かった。
その後、お父さんの義時が亡くなると、泰時は鎌倉に戻るんだけど、その際、義時の継室(後妻)である「伊賀の方」が、自身の子どもである「北条政村」を執権にしようとしたらしい。政村は泰時からすれば異母弟にあたる。
北条政子はこれを「謀反」とみなして、伊賀の方を伊豆に流罪とするんだ。
北条政村の烏帽子親はオレ。
このとき政子さんがオレの家まで来て、「おめえ、伊賀の方の謀反に加わってねーだろうな」って言ってきた。こわかった。
オレは「そそそ、そんなはずありません」って言った。
三浦義村は釈明して無罪。
伊賀の方によって執権に推薦されそうになっていた政村は、泰時がかばったこともあって、やっぱり厳罰を免れている。
そもそも伊賀の方を「謀反人」と認定したこと自体が、政子さんの言いがかりだったって言う人もいるけどな。でも面と向かっては言えないぜ。
泰時も「伊賀の方」の謀反を否定しているようだし、『吾妻鏡』にも「伊賀の方が謀反を企てた」って書いていないんだ。
ただ、そもそも義時の死について、「伊賀の方が毒殺したんだ」って独白する僧侶もいたりして、真相は藪の中だ。
結局、執権はどうなるんだ?
このとき、政子は泰時を執権に指名。
政子は泰時と同時に時房も執権として指名したという説もあるんだけど、現存する当時の書類は泰時単独のサインになっているから、まずは泰時が単独で三代執権に就任していたと考えられている。
記憶では、時房おじさんはいったん京に戻って、少し経ってから連署(いわゆる副執権)になってくれたんだ。
執権が一人でいろいろ決められるわけじゃなくて、「執権」と「連署」の二人がサインすることで、はじめて効力をもった書類になるんだ。
世間的にはこの「連署」も「執権」みたいなものだと認知されていたから、「両執権」と言われることもある。
「連署」を作ることによって、泰時は自らの独裁を封じたのだ。
え、かっけえ。
また、三浦義村などの有力御家人11人を「評定衆」とし、そこに執権の泰時と連署の時房を加えた十三人の合議制をつくった。
これは、二代将軍頼家の時代の「十三人の合議制」を原型とする、さらに洗練された組織だった。
光栄っス。
そしてついに泰時は武家政権の金字塔を打ち立てる。
「御成敗式目」の制定だ。
法律を作ったのか!!
京の六波羅にいたとき、泰時はものすごい勢いで「律令」や「公家法」を勉強したんだ。
それらを参考にして、犯罪に対しての処罰の規定とか、謀反に対してはどうするかとか、そういう「武家社会における決まりごと」を作る。
承久の乱の前から、荘園をめぐるいさかいはたくさんあったんだけど、承久の乱後は、幕府は西国の土地も手に入れたこともあって、所有者と農民のあらそいとか、前の持ち主と新しい持ち主のあらそいとかが日本全国で頻発する。
だから御成敗式目では、守護や地頭の職務についても、明確な規定を作っていったんだね。
公家の法律はほとんど漢文で書かれていて、法律を読めない武士や農民に対して、貴族が法律違反をすることも多かったから、御成敗式目はできるだけ多くの人が読めるような文体で書いてみた。
オレも式目の成立に署名した。
これで、定められた以上の租税を貴族が持っていくような違法行為が減るはずだぜ。
これの面白いところは、「公家」対「武家」とか、「農民」対「地頭」といった裁判で、けっこう「武家」や「地頭」が負けてるんだよね。
幕府が作ってるから、武家や地頭に有利に作られているのかと思えば、まったくそんなことはなくて、非常に公平になっている。
たとえば、農民の家に押し込んでいた罪人が逃げちゃって、地頭が農民に罰金を科すんだけど、農民が「そんなの違法だ!」って訴えてくる。
幕府の裁定は、「わざとじゃないのなら罰金は違法」というもの。
とにかく誰もひいきせずに、「式目」に照らし合わせて「道理」を貫いた。だから、けっこう地頭も負けてた。
ここまでくると、「鎌倉幕府」の最高権力は、「将軍」ではなくて「北条氏」だと思えてくるな。
三代将軍源実朝までは、まだ「将軍」が中心だった。
でも、実朝の死後、幕府は朝廷に「将軍として皇子がほしい」といい、「後鳥羽はそれを拒否して、「摂関家の子どもならいい」というんだね。このあたりの摩擦が、承久の乱のひきがねの一つになっていた。
結果的に将軍としてやってきたのが、左大臣九条道家の息子である「三寅」だったんだけど、まだ2歳だったから、「将軍代理」を北条政子がやっていた。
その後、義時の代で承久の乱に勝利して、泰時の代で御成敗式目が成立したあたりでは、完全に「北条氏の政権」になっているね。
三寅さんが元服して「藤原頼経」として四代将軍になったあと、はじめて京に里帰りしたとき、随兵を率いて先陣のチームをつくったのはオレ。
頼経さんの後ろをお守りしたチームが泰時さんチームと時房さんチームだ。
京に上洛するわけだから、「これが鎌倉幕府だ!」っていうパレードじゃなきゃいけねえ。
その行列の「3チーム」のうちの1つはオレがキャプテン。しかも先陣。いまふうに言うなら特攻隊長。パネエ。
義村、うれしそうだな。
藤原頼経にとっては、「幕府の将軍」としての里帰りだから、故郷に対する「ハレ舞台」といえる。
同時に、三浦義村にとっても、「鎌倉幕府の特攻隊長」的なポジションだから、やはり「ハレ舞台」だったんだね。