北条泰時 ―筋を通すが情には厚い 完成したぞ 御成敗式目―

人物
北条泰時 ほうじょうやすとき

鎌倉幕府第三代執権しっけんです。

お父さんは北条義時よしときです。おじいさんは北条時政ときまさです。

承久の乱の際には、叔父である北条時房ときふさ(義時の弟)とともに上京し、朝廷軍に勝利した後も京にとどまり、戦後処理にあたりました。これが六波羅探題ろくはらたんだいの始まりです。

「道理」を大切にする人物で、「法律」や「理屈による決定」を重んじました。その表れが、「評定衆」の設置と、「御成敗式目」の制定です。

朝廷とは協調関係がありましたが、承久の乱で流された後鳥羽上皇や順徳上皇を京に戻したいという朝廷の要求は拒否しました。

また四条天皇の死後、貴族たちの意見は聞き入れず、幕府の意向として後嵯峨ごさが天皇を即位させるなど、朝廷の人事にも強い影響力を保ちました。

説話『沙石集しゃせきしゅう』には、泰時について、「まことの賢人」「民の嘆きを自分の嘆きとする」「万人の父母のような人」と書かれており、当時の評判の高さがうかがえます。

なんというか、これを読むと実に立派な人であるな。

『吾妻鏡』によれば絶賛の嵐だね。『吾妻鏡』は北条氏が話を盛っているところがあるから、さしひいて考えなきゃいけないんだけど、さしひいてもかなり立派な人物だね。

台風被害が続いた伊豆国で、幕府に借りていたお米も返すことができなくて困り果てた農民たちのところに北条泰時が来て、貸し出しの証文を焼き捨てて、しかもさらにお米をあげたって話が残っている。

北条義時
北条義時

わが息子ながらあっぱれだ。

三浦義村
三浦義村

証文を焼いたってところがまたかっこいい。

北条泰時
北条泰時

わしの話がたまたま残っているだけで、実はそういう領主は珍しくなかったんだよ。

三浦義村
三浦義村

そうやって思い上がらないところもかっこいい。

そこにシビレル、アコガレルゥ!

したわれ方が尋常じんじょうじゃないぞ。

北条泰時やすときの幼名は金剛こんごう

元服の際、源頼朝よりとも烏帽子親えぼしおやとなり、「頼」の一字をとり北条頼時よりときとなるんだ。

このことからも、頼朝からの期待の高さがうかがえるよね。

でも、頼朝の死後、「泰時やすとき」と改称している。改称の理由はわからない。

源頼家
源頼家

わしが二代将軍になってから、北条氏との関係は悪化していったから、北条氏をいずれ継ぐ者として、源家げんけと距離をおいたのかもしれないな。

北条義時
北条義時

そもそも頼家なんかは、凶作で農民が苦しんでいたときにも蹴鞠けまりで遊んでいたからな。

お米を貸して、貸し出しの証文を焼いた泰時とは比べようもないわな。

源頼家
源頼家

ああ~。そういえば台風で各地の農民が困っているらしいってときに蹴鞠けまりしてたら、泰時やすときが「蹴鞠は奥が深いものだから、やるのはいいんだけど、農民が困っているときくらいはやめたほうがいいですぞ」って注意してきたんだった。

オレはそのとき、時政や義時に言われるんならまだしも、オレの一個下の泰時に言われたもんだから、「うっせーよ、お前、後輩のくせに、地元帰れよ」って言っちゃったんだ。

三浦義村
三浦義村

泰時さんは、そのあと本当に地元に帰って、農民にお米を貸して証文を焼いたんだぞォ!

「理想の上司」のベスト1とワースト1みたいだな。

泰時やすときが歴史の教科書に登場し始めるのは、「承久じょうきゅうの乱」あたりからだね。

おじさんの北条時房ときふさといっしょに京に攻め上って、後鳥羽ごとば上皇が集めた朝廷軍に勝利する。

三浦義村
三浦義村

オレも行ったぞ。

朝廷側についた弟の三浦義胤よしたね東寺とうじで再開。

承久の乱に勝利したあと、後鳥羽ごとば側についた公家や武士の所領を没収して、鎌倉幕府側についた御家人たちにそれを与えるという戦後処理をしたんだね。

多くは西国の荘園だから、京にいるほうが処理しやすかった。それに、朝廷がまた「幕府打倒」の兵を集めたりしないように、見張る必要もあった。

そこで、京の六波羅ろくはらという場所を拠点にして、泰時と時房がそれぞれ北側と南側に住んだんだね。当時はただ単に「六波羅」と言われていたけど、後世には「六波羅探題ろくはらたんだい」と称された。

北条泰時
北条泰時

かつて、平清盛などの伊勢平氏が住んだところだ。

この「六波羅探題」というものは、鎌倉幕府の出張機関として、非常に重要なものになる。

ここで泰時と時房は、公家の法律とかもたくさん学びながら仕事に励んだらしいね。

北条泰時
北条泰時

京は学ぶものが多かった。

その後、お父さんの義時よしときが亡くなると、泰時は鎌倉に戻るんだけど、その際、義時の継室(後妻)である「伊賀いがの方」が、自身の子どもである「北条政村まさむら」を執権にしようとしたらしい。政村は泰時からすれば異母弟にあたる。

北条政子はこれを「謀反むほん」とみなして、伊賀の方を伊豆に流罪とするんだ。

三浦義村
三浦義村

北条政村まさむら烏帽子親えぼしおやはオレ。

このとき政子まさこさんがオレの家まで来て、「おめえ、伊賀の方の謀反に加わってねーだろうな」って言ってきた。こわかった。

オレは「そそそ、そんなはずありません」って言った。

三浦義村は釈明して無罪。

伊賀の方によって執権に推薦されそうになっていた政村は、泰時がかばったこともあって、やっぱり厳罰を免れている。

三浦義村
三浦義村

そもそも伊賀の方を「謀反人」と認定したこと自体が、政子さんの言いがかりだったって言う人もいるけどな。でも面と向かっては言えないぜ。

泰時も「伊賀の方」の謀反を否定しているようだし、『吾妻鏡』にも「伊賀の方が謀反を企てた」って書いていないんだ。

ただ、そもそも義時の死について、「伊賀の方が毒殺したんだ」って独白する僧侶もいたりして、真相は藪の中だ。

結局、執権はどうなるんだ?

このとき、政子は泰時を執権しっけんに指名。

政子は泰時と同時に時房ときふさも執権として指名したという説もあるんだけど、現存する当時の書類は泰時単独のサインになっているから、まずは泰時が単独で三代執権に就任していたと考えられている。

北条泰時
北条泰時

記憶では、時房ときふさおじさんはいったん京に戻って、少し経ってから連署れんしょ(いわゆる副執権)になってくれたんだ。

執権が一人でいろいろ決められるわけじゃなくて、「執権」と「連署」の二人がサインすることで、はじめて効力をもった書類になるんだ。

世間的にはこの「連署」も「執権」みたいなものだと認知されていたから、「両執権」と言われることもある。

「連署」を作ることによって、泰時は自らの独裁を封じたのだ。

え、かっけえ。

また、三浦義村よしむらなどの有力御家人11人を「評定衆ひょうじょうしゅう」とし、そこに執権の泰時と連署の時房を加えた十三人の合議制をつくった。

これは、二代将軍頼家の時代の「十三人の合議制」を原型とする、さらに洗練された組織だった。

三浦義村
三浦義村

光栄っス。

そしてついに泰時は武家政権の金字塔を打ち立てる。

御成敗式目ごせいばいしきもく」の制定だ。

法律を作ったのか!!

京の六波羅にいたとき、泰時はものすごい勢いで「律令」や「公家法」を勉強したんだ。

それらを参考にして、犯罪に対しての処罰の規定とか、謀反に対してはどうするかとか、そういう「武家社会における決まりごと」を作る。

承久の乱の前から、荘園をめぐるいさかいはたくさんあったんだけど、承久の乱後は、幕府は西国の土地も手に入れたこともあって、所有者と農民のあらそいとか、前の持ち主と新しい持ち主のあらそいとかが日本全国で頻発する。

だから御成敗式目では、守護しゅご地頭じとうの職務についても、明確な規定を作っていったんだね。

北条泰時
北条泰時

公家の法律はほとんど漢文で書かれていて、法律を読めない武士や農民に対して、貴族が法律違反をすることも多かったから、御成敗式目はできるだけ多くの人が読めるような文体で書いてみた。

三浦義村
三浦義村

オレも式目の成立に署名した。

これで、定められた以上の租税を貴族が持っていくような違法行為が減るはずだぜ。

これの面白いところは、「公家」対「武家」とか、「農民」対「地頭」といった裁判で、けっこう「武家」や「地頭」が負けてるんだよね。

幕府が作ってるから、武家や地頭に有利に作られているのかと思えば、まったくそんなことはなくて、非常に公平になっている。

北条泰時
北条泰時

たとえば、農民の家に押し込んでいた罪人が逃げちゃって、地頭が農民に罰金を科すんだけど、農民が「そんなの違法だ!」って訴えてくる。

幕府の裁定は、「わざとじゃないのなら罰金は違法」というもの。

とにかく誰もひいきせずに、「式目」に照らし合わせて「道理」を貫いた。だから、けっこう地頭も負けてた。

ここまでくると、「鎌倉幕府」の最高権力は、「将軍」ではなくて「北条氏」だと思えてくるな。

三代将軍源実朝までは、まだ「将軍」が中心だった。

でも、実朝の死後、幕府は朝廷に「将軍として皇子がほしい」といい、「後鳥羽はそれを拒否して、「摂関家の子どもならいい」というんだね。このあたりの摩擦が、承久の乱のひきがねの一つになっていた。

結果的に将軍としてやってきたのが、左大臣九条道家の息子である「三寅」だったんだけど、まだ2歳だったから、「将軍代理」を北条政子がやっていた。

その後、義時の代で承久の乱に勝利して、泰時の代で御成敗式目が成立したあたりでは、完全に「北条氏の政権」になっているね。

三浦義村
三浦義村

三寅さんが元服して「藤原頼経よりつね」として四代将軍になったあと、はじめて京に里帰りしたとき、随兵ずいひょうを率いて先陣のチームをつくったのはオレ。

頼経さんの後ろをお守りしたチームが泰時さんチームと時房さんチームだ。

京に上洛するわけだから、「これが鎌倉幕府だ!」っていうパレードじゃなきゃいけねえ。

その行列の「3チーム」のうちの1つはオレがキャプテン。しかも先陣。いまふうに言うなら特攻隊長。パネエ。

義村、うれしそうだな。

藤原頼経にとっては、「幕府の将軍」としての里帰りだから、故郷に対する「ハレ舞台」といえる。

同時に、三浦義村にとっても、「鎌倉幕府の特攻隊長」的なポジションだから、やはり「ハレ舞台」だったんだね。