梶原景季 ―親子で活躍梶原家 テンション高めな坂東武士だが 和歌も詠めるし風雅も解した―

人物
梶原景季 かじわらかげすえ

平安時代末期~鎌倉時代初期の武将です。通称は「源太げんた」です。

お父さんは梶原景時かじわらかげときです。

1181年には、源頼朝の寝所を警護する「家子いえのこ」に選出されています。

木曾義仲きそよしなかを討伐する目的で上洛する過程での「宇治川の戦い」では、佐々木ささき高綱たかつなと先陣を争いました。

続く平氏追討の戦いにおいて活躍しますが、頼朝の許可を得ずに京で任官したことで、関東に戻ることを禁じられてしまいます。

その後は許され、奥州合戦に従軍し、活躍しました。

「梶原景時の変」で鎌倉を追放された父景時にしたがい、西に向かいますが、駿河国で刺客に討たれました。

梶原景時
梶原景時

源太(梶原景季)は、わしのかわいい息子だゾイ。

景時も息子の悪口だけはさすがに言わないんだな。

『平家物語』のエピソードでは、佐々木高綱との「先陣争い」が有名だね。

木曾義仲を討つために、源頼朝は、弟である範頼と義経に上京を命じる。

範頼は北陸側から、義経は東海道から京を目指すんだけど、梶原景季は、出発前に頼朝に馬をもらいに行くんだ。

頼朝は、「いけずき」「するすみ」という二頭の名馬を持っていた。

景季は「いけずき」をほしがるんだけど、頼朝は、「それはいざとなったら自分が乗る馬だ」と言って、「するすみ」のほうを与えるんだね。

ところが、その後、佐々木高綱が出陣のあいさつに来た時に、「いけずきを所望する者はたくさんいるのだが、それをわかっておけよ」と言って、高綱に「いけずき」を与えるんだね。

源太、残念だったな。

でも、源太は、京に向かう途中で、「いけずき」を見つけちゃうんだね。

それで、「オレにはくれなかったのに!」ってムカムカして、佐々木高綱と刺し違えてやろうかと思い始めるんだ。

梶原景季
梶原景季

佐々木高綱と殺し合って、よい侍が二人いなくなって、頼朝さんに損をさせてやるゥ!

なんか、こういうところは血筋だな。

梶原景時
梶原景時

ん?

すると、雰囲気を察した佐々木高綱が、「梶原さんが欲しがったのに、頼朝さんが許さなかったと聞いたから、まして、自分が欲しいって言っても、くれるはずないと思って、いけずきを盗んできちゃった」って言うんだ。

梶原景季
梶原景季

なあんだ。

嘘も方便ってやつだな。

そうしたら、源太は、腹立たしい気持ちがすっかりおさまって、「うらやましい! それなら、オレも盗めばよかった!」って大笑いしたということだ。

このエピソードでかわいそうなのはスルスミだな。

スルスミ
スルスミ

ワイもけっこういい馬なんだけど、やる気なくしたわ。

スルスミのテンション下がってるぞ!

さて、宇治川に到着すると、義経は「川の流れが弱まるのを待とうか」と言う。

それを聞いた畠山重忠は、「この川は近江の水海の末だから、待っても水は引かない」と言って、瀬踏み(馬で川に入って、浅いところを探す作業)を始めた。

そんなとき、武者二騎が、馬を走らせて出てきた。

まあ、前後の文脈から考えて、佐々木高綱と梶原景季でしょうな。

梶原景季
梶原景季

そうだとも。ざぶんざぶん。

高綱は景季に対して、「腹帯はるびがゆるんでいるから締めたほうがいい」と言って、景季は高綱に対して、「水の底に(馬を転ばせる)大綱があるよ。不覚をとるな」と言って、お互いやあやあ言い合って、先陣争いをするんだ。

結果、佐々木高綱が先について、「先陣ぞや!」と大音声をあげて名のったのだ。

梶原景季
梶原景季

超くやしい。

スルスミ
スルスミ

まあ、自分やる気ないしな。

続いて、畠山重忠が対岸につくと、なんだか背中に違和感がある。

畠山重忠
畠山重忠

何者かが背中にむずとくっついている。

なんと、畠山重忠の烏帽子子えぼしごである大串重親おおくししげちかの馬が流されてしまって、重親は、重忠の背中にしがみついていたのだ。

でも、重忠は、「きみたちはいっつも重忠を頼るねえ」なんていう感じで余裕。

かっけえ。

畠山重忠
畠山重忠

とりあえず、わしは大串重親を岸辺に投げあげてあげた。

よかったな、大串。ちゃんとお礼言うんだぞ。

すると、大串は、体勢を整えて・・・

どうしたんだ? 丁寧にお礼を述べたのか?

武蔵むさし国の住人、大串次郎重親おおくしのじろうしげちか、宇治河の先陣ぞや!」と名のった。

背中にしがみついていて、投げあげてもらっただけなのに!?

これにはみんな大爆笑。

畠山重忠
畠山重忠

大ウケだった。

そんなとき、源太はどうなったんだ?

梶原景季
梶原景季

川の勢いに流され、下流のほうで岸にあがった。

スルスミ
スルスミ

まあ、やる気ないですしおすし。

こうして、宇治川の先陣は佐々木高綱におくれをとったのだけれども、梶原景季は、のちの一の谷の合戦で平重衡しげひら(清盛の息子)を捕獲するという武功をあげている。

やるときはやるんだな。

ちなみに、一の谷の合戦では、景季の弟の景高が先陣を切って敵に飛び込んじゃう。

それを助けようと、景季も飛び込んじゃう。景時も飛び込んじゃう。

けっこうがんばって、一回後退するんだけど、景季が戻ってこない。

景時は、「もしかして景季は討たれてしまったのかも・・・」と思って、泣きながらもう一回敵陣に飛び込んで行っちゃう。

え、ちょっと、景時のかっこいいエピソードあるんだな。

梶原景時
梶原景時

子どものことになるといいお父さん。

でも景季は生きていて、親子で大奮戦。

このことは「梶原の二度駆け」といわれていて、都のほうでは案外梶原の人気が高い。

梶原景時
梶原景時

「案外」とかいらないから。

梶原景季
梶原景季

父ちゃん、あのときはありがとう。

このように、平家討伐の戦いで大活躍するんだけど、頼朝の許可を得ずに任官したメンバーの一人が景季だったから、頼朝からは「関東に戻ってくるな」としかられている。

八田知家
八田知家

ああ~。

あのときは、頼朝さんがメンバーたちの悪口を散々書いてきたな。

でも、景季は、いっしょにしかれたものの、悪口は書かれてなかったよね。

梶原景季
梶原景季

かえって不気味。

でも、わりとすぐに許されて、奥州合戦にも従軍。

そのときに、頼朝に和歌を献じたりもしている。

和歌?

東国武士なのに和歌が詠めるのか?

梶原景季
梶原景季

意外ですかな?

景季は、平家とたたかっていたときも、えびら(矢を入れる容器)に梅の花を挿していたそうで、敵味方問わず「東国の武士なのに風流だなあ」と称賛されたらしい。

梶原景季
梶原景季

シャレオツでしょ。

このように、頼朝には重宝されたんだけど、頼朝の没後、父である景時が鎌倉を追放されてしまう。

くわしくはこちら。

鎌倉を追放された梶原は、一族で京あるいは西国を目指していたようだけど、途中の駿河するが国で刺客に討たれてしまう。

景季もそこで討たれてしまった。