平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将です。
おじいさんは「三浦義明」であり、お父さんは「杉本義宗」です。
義宗は、義明から家督を継ぎますが、三浦半島よりも鎌倉に近いところに居住しようと考え、杉本という場所に城をかまえ、「杉本義宗」と名乗りました。しかし、所領をめぐる争いから、水軍で安房(現在の千葉県)を攻めた際、深手を負い、亡くなります。
そこで、三浦家の家督は「義宗」の弟である「義澄」が継ぎました。
さて、「義宗」には子どもが複数おりましたが、長男の「義盛」は和田というところに居をかまえ、「和田義盛」と名乗りました。その弟が「和田義茂」です。
「義茂」は城主のいなくなった杉本城に入城し、杉本の家督を継いだので、「杉本義茂」とも言います。

由比ガ浜で「畠山」対「三浦・和田」になったとき、和平が成りかかっていたのに攻撃してしまった人か!

いきおい。

その時の話はこちら。

さて、和田義茂は、頼朝が鎌倉に入ってからは側近として仕えて、頼朝の寝室の警護などをしていたんだ。
武芸に秀でていて、弓の名手だったようだよ。
そもそも、この「家子」の11人は、弓の名手であることを選定の根拠にしているから、「家子=弓の名手」なんだけどね。

オレも家子。

オレも家子。

オレなんか、家子専一(代表みたいなもの)。

平家方についていた足利俊綱追討を命じられて、三浦義連らとともに下野国に出陣している。

その足利俊綱を、得意の弓矢で見事に討ったのだな。

いや、それが、足利俊綱は、家臣の桐生六郎に裏切られて、殺されてしまった。
桐生六郎は、それを功績として、頼朝側につこうとするんだね。

なんと。

わしが頼朝さんに伝えたんだ。

でも、頼朝って、こういった「家臣による主君殺し」にむちゃくちゃ厳しいんだ。
頼朝は「もっとも不当なり」として、梶原に斬るように命じる。

そして、わしが斬った。

オレの弓矢は出番がなかったぜ。

足利俊綱や、その息子である忠綱は、志田義広に通じていたんだね。
忠綱は、野木宮合戦で小山朝政軍に敗れたあと、西国のほうに逃げて平家軍に属したとうわさされているけれど、消息不明の扱いなので、この「俊綱ー忠綱」の足利氏(藤姓足利氏)は滅びてしまったことになる。

「足利」って、あの足利尊氏の「足利」?

「足利氏」には、清和源氏における河内源氏の流れをくむ「源姓足利氏」と、藤原秀郷の流れをくむ「藤姓足利氏」という二派があるんだ。
一般的に「足利氏」と言う場合、「源姓足利氏」のことを指す。
足利尊氏はこの「源姓足利氏」の子孫。

ややこしいな。

もともとは源義家が息子である義国に伝えたとされる開発地があって、それを安楽寿院に寄進するかたちで「安楽寿院領足利荘」という荘園が成立するんだ。
京にいる義国が名目上の管理者なんだけど、現地で荘園を管理しているのは藤原氏なんだね。その藤原氏が「足利」を名乗り始めたのが「藤姓足利氏」なんだ。
その後、のちに義国自身も足利荘にやってきて、子孫が「足利」を名乗り始める。こちらが「源姓足利氏」。
この2つの足利氏は、最初は協力体制にあったようだけれども、周囲に勢力を拡大するにつれて、だんだん競合相手になっていった。
さっきの話のとおり、頼朝挙兵後の「野木宮合戦」で「藤姓足利氏」は滅びたことになるので、その後「足利氏」といえば、「源姓足利氏」のことを意味するよ。

1181年の由比ガ浜での犬追物で射手を務めたようだけれども、その後の記録がないから、亡くなったか、ケガかなにかで表舞台から退いたんだろうね。

犬追物ってなんだ?

逃げ回る犬を射るゲームだよ。

最悪。

でも、先がとがっていない特殊な鏑矢を使うから、突き刺さったりはしないんだよ。

でも最悪。

遊びというよりは、トレーニングのひとつであり、また、儀式でもあったのだな。

でも、わしらの時代のずっと後に、執権北条高時が犬追物に熱中しすぎて悪評が立ったこともあって、その後は廃れていった。
それに、またずっと後に、江戸幕府五代将軍徳川綱吉公が、「生類憐みの令」で犬をいじめることを固く禁じたから、そのころには日本でほとんどみかけなくなったんだ。

高時最悪。
綱吉最高!

いやあ~。
猫追物が存在しなくてよかった。

ネコにあてられる武士がいたらすごすぎだよね。