後鳥羽院のことを語るうえでは、80代の「高倉天皇」と81代の「安徳天皇」のことから話し始めるよ。
長い?
長いけどしかたがない。
しかたがないなら聞こう。
「平治の乱」のあとの権力者と言えば、「平清盛」だったね。
その清盛の娘である平徳子が高倉天皇の中宮となり、二人のあいだに生まれた息子がのちの「安徳天皇」なんだ。高倉天皇にとっての長男だね。
さて、安徳天皇が即位した時点で、清盛は「天皇のおじいちゃん」ということになる。
安徳天皇からしてみれば、父方のおじいちゃん(つまりお父さんのお父さん)は「後白河法皇」で、母方のおじいちゃんが「平清盛」なんだけど、このおじいちゃん同士が対立していて、この時点では「清盛」が優勢なんだね。
後白河法皇は、「今後一切政治に口出しをしません」って約束させられて、鳥羽離宮(鳥羽殿)という上皇のお屋敷に閉じ込められてしまう。
くやしい。
清盛最強の時代が幕をあけるんだな。
これにより、清盛からしてみれば「高倉上皇は娘婿」「安徳天皇は実の孫」という図ができあがり、しかも、もうひとりのおじいちゃんである後白河法皇は幽閉されてしまった。
日本の政治を清盛がすべて指図できるような構造ができあがるんだね。
ウハウハだな。
ところが、1180年の5月に安徳天皇が即位したあと、6月には、後白河法皇の息子である「以仁王」が源氏とタッグを組んで挙兵。9月には源頼朝が挙兵。同じ9月に木曾義仲(源義仲)が挙兵。
以仁王の息子さんである「北陸宮」をお守りしておりました。
挙兵ラッシュだな。
翌年1181年には、もともと平家との折り合いが悪かった「興福寺」や「東大寺」を平重衡軍が焼き払ってしまう。
すると、その仏罰があたったかのように、直後に高倉上皇が崩御し、また、清盛が高熱で亡くなってしまう。
南都焼き討ちってやつだな。
高倉はわしの息子。
そんな中、木曾義仲の軍が勝利し続け、1183年にはとうとう比叡山延暦寺まで来てしまう。
比叡山延暦寺は、京の北東にある、都への入口のような場所。
このままではすぐに都に来てしまう!!
平家は京を捨てて、安徳天皇を連れて西国のほうに逃げるんだ。いわゆる「平家の都落ち」というやつ。
安徳天皇の弟の守貞親王も「皇太子」という名目でいっしょに連れていかれた。代々天皇が引き継いでいく「三種の神器」も持って行ってしまった。要するに平家は、京ではないところに朝廷をつくろうとするんだね。
このとき平家は後白河法皇も連れて行こうと計画するんだけど、後白河法皇は逆に比叡山のほうに逃げて、平家からは距離を置くんだ。ここで源義仲とつながりを持つんだね。
その後、有力な貴族たちを連れて、京の蓮華王院に入る。
翌日に源義仲と源行家(頼朝・義経・義仲のおじさん)が蓮華王院に参上して、ここで後白河法皇は「平家を討て」と命じている。
いっちょ、やったるぞい!
平家のほうが「朝敵」になってしまったのだな。
ところが、京に入った義仲軍が、食料を奪ったり、乱暴なふるまいをしたり、ちょっと評判が悪かったんだね。後白河法皇からしてみると、治安をまかせたはずなのに、義仲軍によってむしろ乱されてしまう。
しかも、皇位継承に義仲が首をつっこんでくる。
安徳天皇が不在なのに、継承しちゃうのか?
不在だからこそ、「京に天皇がいないのはやべえ」ってなるんだよ。
「安徳天皇」も「守貞親王」も平家に連れていかれちゃってるから、後白河法皇によって、「しかたがないから、こっちはこっちで天皇を決めよう」というはこびになる。
そこで、高倉天皇の第三皇子である「惟明親王」か、第四皇子である「尊成親王」のどちらかを即位させようということになるんだね。
ちょっとまったー!
木曾義仲が来たぞ。
平家を追い払ったのは源氏軍だ!
それもこれも以仁王の呼びかけがあってこそだ!
以仁王は後白河法皇の皇子であり、本来であれば以仁王が皇位を継承すべきところ。
残念ながら以仁王はすでにこの世にいないので、以仁王の皇子である「北陸宮」が天皇になるべきだ!
まあ、以仁王の子どもということは北陸宮はわしの孫になるけど・・・
でも、以仁王は天皇じゃなかったから・・・
そもそも、高倉院の皇子がいないならまだしも、「惟明親王」も「尊成親王」もおるしのう・・・
朝廷の人事に武士が口出しをしてくること自体、貴族たちにとってはびっくりすることだったんだね。
義仲の主張は退けられて、「尊成親王」が即位することになる。
「惟明親王」のほうが年上だったんだけど、お母さんの身分が「尊成親王」のほうが上だったこともあって、「尊成親王」に決まる。
一説には、後白河法皇と面会したときに、「惟明親王」はむずがって、「尊成親王」は臆すことなく接したから、「尊成親王」に決まったらしい。
この「尊成」が、のちの「後鳥羽」じゃ。
後白河が「後鳥羽」と名付けたのか?
ちがうよ。
天皇は、天皇でいるあいだはただの「天皇」だよ。
「上」とか「帝」とか呼ばれるんだよ。
天皇を他の人に譲位すると、「上皇」と呼ばれるんだよ。
譲位したあと、出家してお坊さんになると「法皇」と呼ばれるんだ。だからわしは「法皇」。
あとは、まあ、引退した天皇はみんな「院」って言われる。だから「上皇」も「院」だし、「法皇」も「院」。要するに、かつての天皇はみんな「院」。
そういう存在が、この世から失われたあとではじめて「後白河」とか「後鳥羽」とかの名前がつくんだよ。「追号」っていうよ。
だから、後世の人たちが「後白河法皇」とか「後鳥羽院」とかいうのであって、生きている間にそう呼ばれているわけではない。
自分が生きているあいだに、自分の追号を決めたのは「後醍醐天皇」くらいだよ。
話を戻すと、後鳥羽はこうやって4歳で即位した。
安徳天皇がいるのに、後鳥羽天皇が誕生したわけか。
そう。
安徳天皇は退位しないまま、1185年の平家滅亡の際に壇ノ浦で崩御する。
だから、1183年の後鳥羽天皇即位から、1185年の平家滅亡までの2年間、天皇が二人いたことになる。
じゃあ、1184年あたりに安徳天皇が京に「ただいまー」って帰ってきてたら、大騒ぎになっていただろうね。
ジャンケンかなんかで決めるしかないな、それは。
さて、後鳥羽が天皇であった期間は、後白河法皇が治世をとりおこなった。
この時代は、若い天皇に即位させちゃって、上皇が実質的な政治を行うことが当たり前だったんだね。こういうのを「院政」という。院政を行なっている上皇や法皇のことを「治天の君」というよ。
後鳥羽は幼少だから、そもそも政治ができる年齢じゃないよね。
4歳って、まだバブーとかチャーンって言ってるころだもんな。
後白河の死後は九条兼実という関白が政治をとりおこなうんだけど、後鳥羽天皇の第一皇子「為仁」が生まれたあたりから、為仁のおじいさんである土御門通親の力が強くなって、九条兼実を失脚させてしまう。
このころにはすでに後鳥羽天皇に能力が備わっていたから、譲位して「上皇」となり、3歳の為仁が天皇(土御門天皇)になった。
後鳥羽が「治天の君」になって、「院政」というやつをやるんだな。
そのとおり。
この土御門天皇は10年ちょっと天皇でいるんだけど、とってもやさしくて、後鳥羽上皇としては、「鎌倉幕府とガチンコでわたりあっていくのはちょっと厳しいなあ」と思うんだね。
そこで、もうちょっとイケイケの第三皇子「守成」を即位させて天皇(順徳天皇)にするんだ。
これで「土御門」は「上皇」になるんだけど、「院政」はせずにのんびりしていた。
なんで土御門上皇は院政をしなかったの?
後鳥羽がそのままやってたから。
後鳥羽はなんでもやりたがり屋だな。
後鳥羽は、歴代の天皇のなかでも、ありとあらゆるものを何でもやったんだ。
弓の訓練もたくさんしたし、楽器の演奏もがんばったし、和歌もたくさん詠んだ。
そしてそのどれもが上級の腕前だった。
まあ、ジャニーズでいえばキムタクの立ち位置。
このときは「藤原定家」という和歌の天才がいたんだけど、この定家から多くのことを学んで、秀歌を作っていくんだね。
定家に命じて『新古今和歌集』というのも作らせるんだけど、後鳥羽みずからがかなり首を突っ込んでいて、自分の歌をたくさん入れてる。
あと、刀づくりも大好きで、菊の模様を彫って装飾したりしていた。
これが皇室の菊の御紋のはじまりといわれている。
菊の御紋はわしが育てた。
すげえ。
後鳥羽が鎌倉幕府を敵視した理由はいろいろあるんだけど、最大のものとしては、「税収入が減ったこと」なんだね。
当時は日本各地に、貴族や、地元の有力者が運営する「荘園」という土地があって、各地の「地頭」が税の取り立てを担っていたんだ。
「地頭」がまだいないときなんかは、「荘園」の持ち主は、天皇や貴族に「寄進」ということをして、「この土地は天皇のものだぞ!」ということにした地主が多かった。すると、力づくで奪われたりはしないから、持ち主は安心できたんだね。その代わり、寄進先の天皇や貴族に税収入のいくらかを払っていたんだよ。
でも「地頭」が設置されるようになってからは、「地頭」が税の取り立てを担当するようになる。「地頭」は鎌倉幕府が任命しているから、荘園を天皇に寄進する地主がとても少なくなってしまうんだ。それに伴い、天皇のところにくる税収入がとても少なくなってしまう。
わしが大家である物件が激減したということだ。
収入が減るのは痛いことだな。
でも、三代将軍の実朝とは仲良しだから、そのへんのところを相談できそうだ。
「実朝」っていう名前もわしが付けたんだし。
実朝にむっちゃ高い官位をあげたし。
そんな実朝を討ちました。
黒幕はわしというもっぱらの噂。
せっかく幕府とはうまくいっていたのに、実朝がいないとやりづれえ。
実朝が暗殺されて、将軍がいなくなったから、幕府としては次の将軍を立てなければならない。
将軍として、後鳥羽の皇子である「雅成親王」を鎌倉にくださいな。
え・・・。
でも、わしの子どもを鎌倉幕府にあげちゃったら、なんだか人質に取られているような感じだよね。
それに、「幕府の存在をオフィシャルで認めました!」っていうイメージもついちゃう。
そらそうだ!
そうだよね。
だから後鳥羽は、「皇子は出さない。でも摂政や関白なら出すよ」と返事する。
わしの皇子はダメ。
でも、摂政関白(天皇の補佐として政務をおこなう役職)を出す家系からならいいよ。
とびきりのエリートの御子息だから文句ないでしょ。
むむ。
あと、摂津国にあるお気に入りの場所に、地頭を置くのをやめてくんないかな?
ああ~。
地頭に荘園を管理されていることを不愉快に思ってたんだな。
まあその場所は後鳥羽のお気に入りの恋人に与えていた荘園だったんだね。
将軍を摂関家から出すのはまあいいよ。
でも地頭を置かないのはダメ。
お互いムカついてしまうような結果になってしまった。
こういった摩擦が積み重なって、後鳥羽は挙兵を決意する。
さて、土御門から譲位された順徳天皇は「鎌倉幕府打倒」にイケイケだった。
どうしてかというと、順徳天皇のおばあちゃんは「平教子」なんだね。教子は後鳥羽上皇が小さかった時の養育係もやっていた。
この「平教子」のお父さんは「平教盛」という人で、清盛の弟にあたる。
教盛の息子(教子のお兄ちゃん)は一の谷の合戦で敗死し、教盛は壇の浦の戦いで敗死している。
ちょっとややこしくなったけど、順徳天皇からしてみれば、ひいおじいちゃんや大叔父さんが平家の重臣で、源氏に直接討伐されているわけであって、そういったあたりの話を教子から聞かされて育っているんだね。
平家の生き残りの英才教育。
そりゃあ、源氏が憎くもなるわな。
順徳天皇は、倒幕の準備を進めるにあたり、息子の「懐成」に譲位する。順徳は「上皇」となり、懐成は天皇(仲恭天皇)になる。
なんでいちいち譲位して上皇になるの?
天皇のまま討幕運動しちゃだめなの?
おもな理由は3つ。
① 「天皇」という座からはなれることで、儀式的で面倒な政務を減らすことができるので、自由がきくようになる。
② 当時は「上皇」が実質的な決定権をもつのが「暗黙の了解」になっていたので、むしろ譲位してしまったほうが実権をもてる。
③ 在位中に自分が死んでしまうと、自らが後継者を選ぶことができない。「この人に継がせたい」という人がいれば、早めに譲位することで、「継がせたくない人が天皇になってしまう」ことを避けることができる。
たしかに会社だったら、社長でいるよりも、会長とかになっちゃったほうが、そこにいなくてもあんまり探されないもんな。
そうして「自由がきく権力者」として、後鳥羽上皇と順徳上皇がこつこつと「鎌倉幕府ぶっつぶすぞ計画」を進めるんだ。
土御門上皇はなにしてたの?
藤原定家に和歌をほめられたりしていて、「やったぞ」って思ってた。
土御門のファンになりそうだぞ。
でも後鳥羽に対して、「ちょっと冷静になったほうがいいよ」っていさめたのも土御門。
登場人物の中で最も常識のある立派な人物ではないか。
後鳥羽上皇はわしを名指しで「朝敵」として、対決を挑んできた。
朝廷は、関東武士の三浦胤義などを仲間に引き入れていて、胤義は「さすがの義時も朝敵になったら誰も味方しないっスよ」なんて甘いことを言っていた。
ところが胤義が兄である三浦義村に「後鳥羽の味方になって、北条義時討っちゃいましょう」ってお便りを出したら、義村はその使者を送り返して、手紙は義時に見せちゃう。
これは・・・挙兵だ!!
結果は鎌倉幕府の大勝利。
後鳥羽たちは幕府の兵力を甘く見過ぎていたんだね。想像以上に義時の味方をする勢力が大きくて、朝廷軍は敗北してしまう。
どうしてそんなに義時に味方がついたんだろう?
ひとつは、さっき出てきた「税収入」だよね。
関東の御家人たちは、幕府に所領を与えられたり、地頭職に任命されたりして、家族を養うことができていた。これが再び朝廷のものになったら、自分の家庭を守ることができなくなってしまう。
もうひとつは、北条政子が、「朝廷があんたたちに何をしてくれた? 頼朝殿は名誉も誇りも土地もくれただろう!」ってハッパをかけるんだ。これが名演説で、御家人たちが「ウオオォォォォ!」って盛り上がっちゃう。
テンション爆アゲで、北条家に味方するんだ。
政子の影響力すげえ。
なんていうか、暴走族のヘッドの恋人みたいな感じ。
「おかみさん! おかみさん!」ってメンバーに慕われてる。
どんないかついやつらも、おかみさんには頭が上がらない。
わしですら母ちゃんにはさからえない。
さっきの話で、鎌倉幕府は将軍として「皇子」をほしがったけど、後鳥羽はそれを認めず、「摂関家」から出すという話題があったよね。
それで将軍としてやってきたのが三寅(のちの九条頼経)という子どもだった。
四代将軍になるべき人物として鎌倉にくるんだけど、当時2歳くらいだから、当たり前だけどすぐに政治はできない。そのため、「三寅が大きくなるまでは」ということで北条政子が将軍代行をするんだ。
だから実質上、この時期の将軍は政子。みんなからは「尼将軍」と言われていた。
まあ、そんな政子の指導力もあって、鎌倉幕府側にかなりの武士が集まってしまい、朝廷は惨敗してしまう。
さて、敗れた後鳥羽上皇は隠岐(いまの長崎県隠岐島)に流罪となった。
順徳上皇は佐渡(いまの新潟県佐渡島)に流罪となった。
土御門は?
土御門は、乱に加担していないくせに、「みんながいなくなるなら僕も」といって、自ら配流されることを決意。
最初は幕府も「土御門は行かなくていいんだよ」って言っていたんだけど、結果的に本人の要望を受け入れて、土佐に配流とする。
なんていうか、土御門の人間性が高すぎるよな。
幕府としても、土御門の対応は別格で、土佐に配流になったあとも、幕府は土御門を都に近い阿波に移動にさせて、そこにきちんとした宮殿をつくっている。
それくらいしてあげたいよな。
後鳥羽はそのまま隠岐で、順徳はそのまま佐渡でこの世を去っている。
一般的に、恨みをのこしてこの世を去ったであろう天皇には、追号に「徳」の字を入れるんだ。だから、後鳥羽は、最初は「顕徳院」という追号が与えられていた。
じゃあなんで「顕徳天皇」って言わないの?
後鳥羽たちを流罪にする際の手続きは、京に来ていた北条泰時が仕切っていたんだよね。
泰時は義時の息子。
この北条泰時が亡くなったときに、「後鳥羽の恨みも緩和しただろう」と判断して、「徳」をつけない通常の追号をあたらしくつけようということになったんだね。
のちに、「後嵯峨天皇」が即位した年に、正式に「後鳥羽院」という追号に改められたんだ。
ちなみに後嵯峨は土御門の息子。
ここでも土御門か!