平安時代末期から鎌倉時代初期の武将です。
お父さんは八田知家です。おじいさんは宇都宮宗綱です。
北条義時や結城朝光らとともに、頼朝の寝所を警護する11人の家子に選出されています。
平家討伐の戦いでは範頼軍として参加、奥州合戦にも従軍しています。
頼朝が上洛し、後白河院に面会する際には、結城朝光や三浦義村らとともに控えており、頼朝の身辺警護を担当していたようです。
頼朝の没後も幕府に仕えますが、畠山重忠の乱の討伐軍に参加した以降の動向はよくわかっていません。

知重はわしの息子で、小田の今後をまかせたんだ。
小田は筑波山の南のほうだ。

つくばワンワンランドの近くだな。

近いっちゃあ近い。

知重の弟たちは、次男有知が伊自良(いまの岐阜県山県市)・三男知基が茂木(いまの栃木県茂木町)・四男家政が宍戸(いまの茨城県笠間市)などを領地として、伊自良氏・茂木氏・宍戸氏の祖となっていった。他の兄弟たちも、各方面に所領を持った。

伊自良って、伊自良湖の伊自良?
そりゃあ、茨城から相当遠いな。

八田家がもともと持っていた土地ではなくて、承久の乱の功績で、有知が伊自良荘の地頭に任ぜられたみたいだね。

わし自身は常陸国の守護になって、名目上は常陸を統治する立場にあったわけだけれども、八田や小田の東には大掾氏の勢力があって、北には佐竹氏の勢力があったから、正直そんなに存在感なかったです。

でも、そのぶんだけ、息子たちが各方面でがんばったよね。

養子も含めると八田の八兄弟!

すげえ。

知重は、合戦や、儀式といった「御家人たくさん登場」というときに、「有力武将」に並んで名前があるから、頼朝からの信任が厚かったことはたしかなんだけど、単独で何かをしたという記録はほとんど残っていない。

まあ、逆に問題行動がなかった優等生ということなんだろうね。

そう思ってもらえるとうれしい。

ああ、でもこの記録なんてどう?

なんだ?

1189年の2月28日、頼朝、彗星を見る。
寝所から庭に出た頼朝の警護として、前に結城朝光と三浦義連が控え、後ろに梶原景季と八田知重が控えた。

前!

前!

後ろ!

後ろ!

いやあ~。
優等生の位置だわ~。

ありがとう。