頼朝が亡くなったあと、あとつぎの源頼家はけっこうわがままだったそうだな。
そお?
訴訟とか、けっこう勝手に裁いちゃうんだよね。
「判決ゥ!」とか言うの激アツだったから、グイグイ自分だけでやってた。
そこで幕府は「十三人の合議制」を作るんだね。
実質上は、頼家の独裁を防ぐための機関なんだ。
ちょいウザ。
まあ、わしなんかは選ばれて当然だよね。
頼朝殿の寵臣(とても大切にされた部下)だったわけだし。
梶原景時は、頼朝が挙兵した直後は平家側にいたんだけどね。
敗走して隠れている頼朝を、景時が見つけるんだけど、知らないふりで逃がしてあげるんだ。
洞穴で頼朝と顔を合わせるんだけど、「お助けします。もし次に会ったらよろしく」という感じで見逃すんだね。
他の人が入ろうとしたら、「コウモリしかいない! うそじゃない! わしにも男の意地があるから、入ったらただじゃおかないぞ!」って言って入らせようとしなかった。
あんときはがんばったよ。
もし違う人に入られてたら、その後の幕府もなかったよね。
その後、頼朝にしたがってからは、ずっと頼朝に重んじられてきたんだよ。
平家を追い詰めるために義経軍に入るんだけど、そこではけっこう義経と対立してしまった。景時が頼朝にあてた手紙には、義経の悪口がけっこう書いてあった。
まあまあボロクソ書いたよ。
この梶原景時の報告が、けっこう頼朝に影響して、「頼朝 v.s. 義経」が始まっちゃったんだね。
その後も景時はずっと頼朝に仕えてきて、鎌倉幕府初期メンバーの重要人物になる。
頼朝亡き後も、「十三人の合議制」に入るなど、重要な人物であることにかわりなかった。
この「十三人の合議制」という機関が、その後、長きにわたり幕府を支えていくんだろうな。
それが、短期間で解体する。
まず、結城朝光という人が、「自分は頼朝に仕えていたのだから、二代目に仕えるくらいなら出家すればよかった」みたいな発言をするんだね。
そしたら、侍所の別当であった梶原景時がその発言を処罰しようとしているといううわさが朝光の耳に入る。
「まじかよ」と思った朝光は、もともと景時に不満を持っていた御家人に相談して、逆に、「景時糾弾の連判状」を作るんだ。66人の署名が集まった。
66人!
そんなに恨まれていたのか!
さすがに落ち込んだよ。
まあ、いろいろな人に謀反の疑いをかけすぎたからね。
特に畠山重忠に謀反の疑いをかけたときなんかは、かなりの御家人に反発されたと思うよ。
あれは最悪だった。
さすがに疑いすぎだよな。
いちど謹慎して、鎌倉に戻るんだけど、結局は追放という流れになる。
景時は釈明もしなかったようだ。
景時一族は、京を目指すんだけど、途中、駿河国(いまの静岡県)で、居合わせた地元の武士に襲撃されて滅亡してしまう。
いまは「梶原山」っていう名前がついているよ。
「梶原山公園」もあるよ。
最速の展開!
その次の年、安達盛長と三浦義澄が病気で亡くなる。
この時点で10人。
その時点で事実上は解体しているんだね。
さらに、その次の年、「比企能員の変」という事件が起こる。
ほう。
このときの時政は、権力を握りそうになったメンバーを、次々とつぶしているよね。
でも、梶原景時を討ったのは、たまたま居合わせた地元の武士でしょ。
ソウダヨ。たまたま居合わせたんだヨ。(棒読み)
地元・・・ねえ・・・
何が言いたい!?
このときの駿河国の守護職は誰だと思う。
ま、まさか・・・
時政だ。
まさかの、ときまさか!
「まさか」と「まさか」の掛詞。
こうして、鎌倉幕府の権力は、時政に集中していくのである・・・
よっしゃ。