公暁 ―銀杏のかげから かく討つぞ―

人物
公暁 くぎょう・こうきょう

鎌倉幕府二代将軍源頼家よりいえの次男です。(三男の説もあります)

幼名は善哉ぜんざいです。乳母の夫は三浦義村みうらよしむらでした。

頼家亡き後、母である北条政子の計らいで、三代将軍源実朝さねとも猶子ゆうしとなりました。その後、数年の修行のあと、鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう別当となります。

1219年、源実朝の右大臣就任の式典が鶴岡八幡宮で行われた際、銀杏いちょうの陰から飛び出し、実朝を討ちました。その後、三浦義村の指図で殺されてしまいます。

こうして、鎌倉幕府の征夷大将軍としては、源氏は三代で滅んでしまいました。

公暁は「くぎょう」と読まれてきたし、教科書にも「くぎょう」と書いてあるんだけど、近年の研究では「こうきょう」と読む可能性が高いみたいだね。

こういう裏切り系の場面では、やたらと三浦義村が出てくるなあ。

三浦義村
三浦義村

勝ちそうなほうにつく。

二代将軍源頼家の遺児であった善哉は、母である北条政子のはからいで、三代将軍源実朝の猶子(いまでいう養子)になるんだね。その後、やはり政子のはからいで、出家して公暁と名乗る。

小さい頃は何が何だかわかっていなかっただろうけど、成長の過程で、父である頼家の死の真相を知っていくんだね。

北条氏の謀略ぼうりゃくで伊豆修禅寺に閉じ込められて討たれたんだったな。

実朝さねともが次の将軍になっているから、公暁としては実朝のことも疑ったのだな。

実朝があとを継いで将軍になったのは12歳だから、頼家を追い込んだのは実朝の指図とはいえないんだけど、公暁はどういうわけか、実朝を「父の敵」と思い込んでいるんだね。

北条義時
北条義時

ひそひそ・・・

三浦義村
三浦義村

ひそひそ・・・

公暁
公暁

ふむふむ。

何かまわりの大人たちから吹き込まれていないか?

1219年1月27日夜、実朝の右大臣就任の式典が鶴岡八幡宮で行われたとき、銀杏のかげから飛び出した公暁は、実朝をり、「親のかたきはかく討つぞ!」と叫んだそうだよ。

でもこれは、誰かに「こうするといいよ」って指示されている可能性があって、黒幕説がたくさんある。ただ証拠はない。

さっきの二人があやしいとネコでも思うけどな。

公暁
公暁

父ちゃんの敵は討った!

これでオレが将軍だ!

義村! 迎えに来てくれ!

三浦義村
三浦義村

はいはい。いま参りますよ。(棒読み)

なにかをたくらんでいる言い回しだ!

公暁は、自らが将軍になるという決意のもと、三浦義村に迎えにくるように伝えるんだけど、義村は「行きますよ」と言っておきながら、刺客を送るんだ。

公暁
公暁

迎えがなかなか来ないから、オレから行こうっと。

よしむらあぁ! 来たよー!

三浦義村
三浦義村

門を閉めておくぞ。

公暁
公暁

とりあえず塀でもよじのぼるか。

公暁はこうやって塀をのぼっているときに、刺客に見つかって討たれてしまう。

よしむらあぁァ!!

この事件で、頼朝の実子である「実朝」と、頼家の実子である「公暁」が同じ日に亡くなることになる。

どんどん頼朝の血筋が減っていってしまうんだね。

これはやっぱり北条義時と三浦義村が黒幕なのでは・・・

そうとも言い切れない。

実朝は、朝廷と仲が良くて、後鳥羽とけっこういろいろ決めちゃうところがあった。それで実朝自身も、どんどん朝廷から授かる「官位」が上がっていくんだね。

朝廷の官位としては「太政官」という職種に「太政大臣・左大臣・右大臣」という管理職がいて、「太政大臣」というのが、いまでいう「内閣総理大臣」みたいなものなんだけど、いない場合もあるし、いてもお飾りの場合があるから、実質は「左大臣」が総理大臣みたいなもの。次いで「右大臣」が偉い。

この「太政大臣」に武士として初めて就任したのが平清盛きよもり

そして「右大臣」に武士として初めて就任したのが源実朝さねとも

大出世だな。

ただ、もともと「鎌倉幕府」としては、「朝廷なんて無意味」「朝廷上等!」みたいに思っている御家人も多くて、彼らは実朝が官位をもらってウハウハしてるのを快く思っていないんだね。

ということは、もっと多くの御家人が共謀している可能性があるのか・・・。

◆北条義時・三浦義村の共謀説
◆御家人集団共謀説
◆後鳥羽上皇黒幕説

など、いろいろな説があるんだけど、状況をみると、北条義時と三浦義村を含めて、もうちょっと何人かの有力御家人が加わっていたと考えるのがよさそうだね。

北条義時
北条義時

わしだけじゃないんだ。

三浦義村
三浦義村

いつも悪者にされてちょっとショック。

なお、頼家の遺児は「一幡」「公暁」「栄実」「禅暁」「竹御所」なんだ。

「一幡」は「比企能員の乱」で殺されてしまう。

「公暁」は、実朝を暗殺した日に殺されている。

「栄実」は「泉親衡の乱」にまつわるいざこざで結果的に自害している。

「禅暁」は「公暁」に加担した疑いをかけられて殺されている。

これで源頼家の息子はみないなくなってしまう。

竹御所たけのごしょ」しか生き延びていないのか・・・

竹御所は、頼家の唯一の娘なんだけど、実朝のあとに朝廷からやってきた四代将軍「藤原頼経(九条頼経)」に嫁ぐんだ。けれど、難産のすえ母子ともに亡くなってしまう。

これにより、頼家よりいえの血筋は断絶することになる。

そもそも、頼朝よりともにも子どもが少なく、みな若くして亡くなっているので、頼朝よりともの血筋も同時に絶えたとされている。

一時は日本の最高権力者であった源頼朝の血脈がこんなに早く絶えてしまうとは・・・。

伝承では、「栄実」は自害しておらず、武蔵国に落ち延びているという話もあるんだけど、出家しているから公式の子孫はいないだろうね。

でも、そもそもどうして頼朝に子どもが少なかったの?

頼朝があちこちに別の妻をつくることを、政子が許さなかったから。

天下をとり、日本中から畏れられた武将が、唯一逆らえなかったのが妻だったということか。

そういうことになるね。

北条氏は頼朝の血脈の断絶をはかったと言われているんだけど、これも頼朝の子どもが少なかったからできたことなんだ。たくさんいればきりがないから、さっさとあきらめていたかもしれないね。