鎌倉幕府初代問注所執事です。
三善家は主に算道をもって朝廷に仕える家系でした。
三善康信は、お母さんが源頼朝の乳母の妹であったことから、頼朝とも縁がありました。伊豆にいる頼朝に京の情勢を伝え続け、清盛が源氏打倒を掲げた時には、奥州に逃げるように頼朝に進言したといいます。
鎌倉幕府成立において、文章博士の系統である大江広元、明法博士の系統である中原親能とともに、京から下った文官として頼朝の側近になりました。
1184年から1221年という長期間にわたり、問注所執事を務めました。
子孫の町野氏・大田氏は、鎌倉幕府のみならず、室町幕府の時代でも問注所執事を世襲しました。

容貌の参考資料がなくて、石ノ森章太郎先生の『マンガ日本の歴史』にいた文官っぽい人を三善康信と思い込んで描いたんだけど、鎌倉に来て頼朝に仕えた時には出家していて、三善入道とも言われている。

なのでこの姿は京にいたときのものだと思ってほしい。

「問注所」っていうのはなんだ?

主に土地の境界線とかの訴訟を受け付けるところだよ。
もともと、なにかのもめごとを解決するのは頼朝の役目なんだね。頼朝は、「もめごとの解決」とか、「恩賞の決定」とかにかかわるセンスが抜群で、御家人たちの信頼を得ていったんだ。
でも、扱うもめごとが多すぎると、裁ききれなくなっちゃうよね。そこで、頼朝が裁くべき訴訟案件は、いったん「問注所」を通すことになった。つまり、訴訟の整理整頓をする役割のために設置されたんだね。だから最初は将軍の住む「大倉御所」の敷地内にあった。
当時の書類だと、「政所」の項目の最後に「問注所執事」と書かれているので、組織的には最初のうちは政所の中の一機関だったという見方もある。

算術で測量もできるから、土地の境界線争いは得意分野です。

あと、侍所っていうのもあったよね。

ほほう。よくぞ思い出したのう。

この「侍所」「政所」「問注所」という三機関が、鎌倉幕府の中枢になったのだ。
だから、「侍所別当」「政所別当」「問注所執事」というのは、みんなのあこがれの立場。
「梶原景時」「大江広元」「三善康信」が、初期の鎌倉幕府の「取締役」というわけだ。

は? 侍所別当はわしだぞ。

いやいやいや、途中で交替しましたから。

梶原が「一日だけやらしてくれ」って言ってきたんじゃん。

その日からずっとわしですよ。ふふふ。

とりあえず、三善康信のページでケンカすんな。

仕事がかぶっている部分もあったんだけど、ざっくりわけると、
「政所」は、「一般政務・財政」
「侍所」は、「御家人の管理や、軍事・警察的活動」
「問注所」は、「裁判(主に土地争いの訴訟)」
という区分だった。

ふむふむ。

こういう機関がくっきりする前は、これらの仕事をあれこれ遂行する人を「公事奉行人」と呼んでいたんだけど、「政所」「侍所」「問注所」が成立した後も、「公事奉行人」という立場そのものはあった。

それが私だ。いわばユーティリティープレーヤーだ。
ちょっと面倒な相談事とかが来て、「これ侍所と政所どっちがやるー?」なんていうような場合には、可能であれば我々公事奉行人が対応していたりしていた。

みんなもう一回来て。

一般政務と財政担当「政所」!

土地争いなど裁判担当「問注所」!

ちょっとしたこと何でもやります「公事奉行人」!

御家人統括、軍事に警察、

「侍所」!

ちょっ、なんでキメるところを梶原が言ってんだよ。

いや、だってわしが侍所の別当ですしおすし。

だからそれが違うって言ってんじゃん。
侍所の別当はわしだから。

まあ、初代は和田さんですけど、ある日譲ってくれたわけですし。

一日だけの約束だったろ。
(こいつ、いつか追放してやる)

(雰囲気的にいつか追放される気がする)

だから、三善康信のページでケンカすんな。

三善家は、太政官の書記をしたり、算道の研究をしたりしていた家計なので、筆記も計算もおまかせください。

算道っていうのはなんなの?

文字通り「算数」の仕事。
大江家の「文章」とか、中原家の「明法」なんかは、そもそものベースに「儒教」があるんだね。
他には「音道」とか「書道」とかの科目もあるんだけど、こういうのも、「儒教」の経典を読んだり、書き写したりということから科目が作られている。
でも、「算道」にかんしては、「儒教を学ぶため」というよりは、「測量」とか「税の計算」とか、実務面の仕事が多かった。
大江広元・中原親能・三善康信の3人は、学問を活かして鎌倉幕府を支えたんだね。

鎌倉幕府は「文学部史学科」の教授と、「法学部法学科」の教授と、「理学部数学科」の教授を手に入れたということなんだな。

現代にあてはめて大雑把に言えばそんな感じだね。
あとは、大江広元も中原親能も三善康信も、京で働いていた貴族だから、都の状況・習俗・文化とかをよく知っていたし、在京の人物との人間関係もあった。
そういう点で、朝廷との交渉事にはこの3名が非常に役立ったんだ。

だからこそ、承久の乱のときには、われわれの意見が重宝された。
朝廷軍に勝てるかどうか、義時さんにずいぶん聞かれたものだ。
わしの返事は「勝てる」であって、だからこそ京に出陣することを提案した。

わしはその時は病床に伏せていたが、なんとか会議に出席して、大江さんの意見を全面支持した。

オレは、こんなに頭いい二人が言うんだから、たぶん勝てるだろうと思って挙兵を決めた。

そして勝った。

そしてわしはそのまま京にとどまった。
六波羅探題の始まりである。

三善康信は承久の乱の直後に亡くなる。

病をおして会議に出てくれたからな。

ずっと問注所の執事ができましたし、承久の乱にも勝てましたし、すべきことはしました。

その後、室町時代になっても、問注所の執事は三善康信の子孫が受け継いでいった。

梶原とか比企とか和田といった「御家人組」は権力争いで滅んでいくけど、大江とか中原とか三善といった「文官組」は、ずっと幕府の中枢にいるんだね。

ああ~。たしかに、子孫まで栄えたのはみんな文官組だなー。

仲良くやってればよかったね。

梶原に言われたくはないけど、そのとおりだな。