下河辺行平 ―甲冑売って舟を買い 義時たちと九州上陸一番乗り―

人物
下河辺行平 しもこうべゆきひら

平安時代末期~鎌倉時代初期の武将です。

下河辺しもこうべ荘(いまの茨城県古河こが市またその周辺)の管理者でした。

以仁王もちひとおうの挙兵を源頼朝よりともに伝えるなど、早い段階で頼朝の挙兵を手助けしました。

平氏寄りであった常陸ひたち国の佐竹氏を攻めた「金砂城かねさじょうの戦い」や、志田義広しだよしひろの挙兵を小山朝政おやまともまさ八田知家はったともいえらが鎮圧した「野木宮のぎみや合戦」などに参加しています。

頼朝の信任が厚く、頼朝の寝所を警護する11人に選ばれています。

平家討伐の合戦においては、源範頼軍に参加し、九州に最初に上陸した一人でした。その後、奥州合戦にも参加し、活躍しています。

頼家よりいえの弓の師範になり、また、源家の門葉もんよう(親戚関係)に準ぜらるなど、幕府の重臣として存在感がありましたが、畠山重忠の乱以降の動向は、ほとんど記録に残っていません。

頼朝の挙兵の前には、源頼政のもとにいて、以仁王もちひとおうの挙兵に加わっている。そのため、「京にいたことがある人物」としても存在感があった。

鎌倉に滞在していた平頼盛よりもりの送別会には、「都に慣れている人」を集めたんだけど、そのうちの一人が下河辺行平しもこうべゆきひら

ああ~。

平治の乱後に頼朝が捕まったとき、頼朝の助命の嘆願をした池禅尼いけのぜんにの息子さんか。

頼朝の挙兵後に鎌倉に来てくれた時のことだな。

三浦義澄
三浦義澄

餞別の宴には、わしも行った。

八田知家
八田知家

わしも行った。

結城朝光
結城朝光

わしも行った。

畠山重忠
畠山重忠

わしも行った。

みんな京を知っているんだな。

あと、下河辺行平といえば、「弓の名手」なんだね。

和田義盛や、三浦義村や、北条義時なんかも弓の名手と称されたけど、下河辺はかなりの腕前だったらしいよ。

下河辺行平
下河辺行平

うれしい。

どのくらい?

現在でも鶴岡八幡宮で行なわれている「除魔神事じょましんじ」という行事があって、それは、魔を退散させるために、矢を射て、的に当てるものなんだ。

この儀式の起源は、源頼朝が武家の事始として文治四年(1188年)1月6日に執り行った「御的始おまとはじめ」だとされている。

長い歴史があるのだな。

このとき、射手を務めているのが、下河辺行平しもこうべゆきひら

なんと!

現在まで連綿と受け継がれる儀式の、初期の射手に選ばれていたのか!

それは弓の名手だ。

頼朝の寝所を守る11人も選ばれているから、腕前もよかったし、人物的にもかわいがられていただろうね。

北条義時
北条義時

その11人を「家子いえのこ」って言うんだけど、最初に書いてあるのがわしで、二番目が下河辺だ。

下河辺行平
下河辺行平

いまふうに言うならセンター争い。

和田義茂
和田義茂

家子坂いえのこざか頼朝イレブン

のちに下河辺行平が「門葉もんよう(源家の親戚)」に準ずる扱いを受けていることからも、この「家子」というのは、頼朝の親類に近い扱いなんだね。

結城朝光
結城朝光

オレも門葉もんようレベルでかわいがってもらいました。

下河辺行平
下河辺行平

ちなみに、朝光とはおじいちゃんがいっしょだといわれている。

あと、ずっと気になってたんだけど、下河辺しもこうべはどうして服を着ていないの?

それこそが下河辺しもこうべの武勇なのだ。

下河辺行平
下河辺行平

甲冑をつけないというアイデンティティー。

どういうことだ?

下河辺行平の最大の武勇は「九州一番乗り」だ。

平家討伐において、彦島ひこしま(いまの山口県)に逃げた平家の退路を断つために、源範頼のりより軍は九州を抑えに行ったんだ。

その際、最初に上陸したグループの一人が下河辺行平。

ただ上陸しただけではない。自らの甲冑を売り払って小舟を買い、鎧を付けずに猛進したのだ。

北条義時
北条義時

最初の上陸グループにはわしもいたけど、下河辺しもこうべはすごかったよ。

下河辺行平
下河辺行平

あとで頼朝さんにむっちゃほめられた。

また、下河辺行平は、「武士の鏡」としての人物像もあって、そのせいか、畠山重忠と仲が良かった。

畠山重忠
畠山重忠

このエピソードは結城朝光ゆうきともみつのページでも話したんだけど、あるとき、わしは伊勢国の沼田御厨みくりやというところの地頭になっていたんだけど、代官として派遣していた者が乱暴をはたらいたということで、そいつを派遣したわしも捕まってしまった。

武士の恥だと思って絶食していたら、わりとすぐに許されて、武蔵国の菅谷館に帰ってきたんだけど、なんか梶原景時がいいがかりをつけてきたんだ。

梶原景時
梶原景時

鎌倉から離れて、武蔵に行ったのは、謀反を企てているんじゃないですかね。

翌日集まった、下河辺行平しもこうべゆきひら小山朝政おやまともまさ結城朝光ゆうきともみつ三浦義澄みうらよしずみ和田義盛わだよしもりで、畠山重忠を討つか、使いを出すかが話し合われた。

結城朝光
結城朝光

重忠さんは謀反なんてしません。

三浦義村
三浦義村

そりゃそうだ。

和田義盛
和田義盛

そりゃそうだ。

下河辺行平
下河辺行平

するわけないわな。

絶大な信頼感。

そこで、重忠の「弓馬の友」として、下河辺行平が派遣されることになった。

畠山重忠
畠山重忠

ようこそ下河辺。

でも、おれに疑いをかけて討っちまおうとする動きがあるのなら、いっそここで腹を切る!

下河辺行平
下河辺行平

いやいや、重忠の「朋友」のわしが派遣されたのは、わしなら、特にもめることもなく重忠を鎌倉に連れ戻してくると思われているからだ。

(つまり、頼朝さんは、そもそも謀反など疑っていないさ)

畠山重忠
畠山重忠

そうかそうか、わっはっは。

酒飲む?

わっはっは。わっはっは。

結城朝光
結城朝光

お二人の友情、シビレル、アコガレルゥ!

さて、そのころ、頼朝の勢力の脅威となりそうなところは、奥州藤原氏くらいだったんだけど、奥州藤原氏は、源義経をかくまっていたこともあり、頼朝と対立ムードになってしまう。

奥州藤原氏の藤原泰衡やすひらは、義経を自害させて、頼朝と和平しようとするんだけど、頼朝は奥州藤原氏の討伐を決定し、挙兵。

頼朝率いる大軍は、下野国を通って北上。そこに、畠山重忠、結城朝光、下河辺行平などが同行した。

畠山重忠
畠山重忠

頼朝さんと出発デッパツだ!

下河辺行平
下河辺行平

つぶすぜ奥州藤原氏!

結城朝光
結城朝光

家子の力を見せてやろうぜ!

八田知家
八田知家

わしや千葉常胤なんかは、下総の武士団とともにいわき方面へ。

比企能員
比企能員

わしは、越後から出羽方面へ。

いまで言うなら・・・

畠山重忠
畠山重忠

東北自動車道!

八田知家
八田知家

常磐自動車道!

比企能員
比企能員

関越から北陸自動車道!

こりゃあ、奥州藤原氏はどこへも逃げられないぞ!

この奥州合戦のひとつである「阿津賀志山あつかしやまの戦い」で、行平ゆきひらは活躍するんだね。

頼朝も行平の弓づかいを見ていただろうから、のちに、「日本無双の弓取り」と評している。

そんなわけで、流鏑馬やぶさめや弓始めなどの儀式ではことごとく射手に選ばれている。

さらには、頼朝の息子である頼家の弓の師範になっているんだ。

下河辺行平
下河辺行平

たいへんな栄誉。

源頼家
源頼家

オレの飲み込みも早かったよ。

最初の巻き狩りで鹿を射止めたのだ。

下河辺の教え方がうまかったんだな。

そのように、「弓といったら下河辺行平」と言われる武将だったのだ。

ただ、政治的な世界にはあんまりかかわってこなくて、頼朝の没後は、畠山重忠の乱の討伐軍に名前があるくらいで、その後の記録はほとんどなくなっている。

畠山重忠の乱についてはこちら。

下河辺行平
下河辺行平

重忠がいなくなってから、すっかり元気がなくなった。

結城朝光
結城朝光

オレも。

下河辺行平は、畠山重忠の「朋友」だったから、乱後は表舞台に出てこなくなったんだろうね。

結城朝光もほとんど登場しなくなる。

行平と朝光は系図でいうといとこ同士なんだよね。この二人はかなり畠山重忠と親しい間柄だったんだね。

畠山重忠
畠山重忠

センキュー。

下河辺行平
下河辺行平

マイプレジャ―。