頼朝の挙兵の前には、源頼政のもとにいて、以仁王の挙兵に加わっている。そのため、「京にいたことがある人物」としても存在感があった。
鎌倉に滞在していた平頼盛の送別会には、「都に慣れている人」を集めたんだけど、そのうちの一人が下河辺行平。
ああ~。
平治の乱後に頼朝が捕まったとき、頼朝の助命の嘆願をした池禅尼の息子さんか。
頼朝の挙兵後に鎌倉に来てくれた時のことだな。
餞別の宴には、わしも行った。
わしも行った。
わしも行った。
わしも行った。
みんな京を知っているんだな。
あと、下河辺行平といえば、「弓の名手」なんだね。
和田義盛や、三浦義村や、北条義時なんかも弓の名手と称されたけど、下河辺はかなりの腕前だったらしいよ。
うれしい。
どのくらい?
現在でも鶴岡八幡宮で行なわれている「除魔神事」という行事があって、それは、魔を退散させるために、矢を射て、的に当てるものなんだ。
この儀式の起源は、源頼朝が武家の事始として文治四年(1188年)1月6日に執り行った「御的始」だとされている。
長い歴史があるのだな。
このとき、射手を務めているのが、下河辺行平。
なんと!
現在まで連綿と受け継がれる儀式の、初期の射手に選ばれていたのか!
それは弓の名手だ。
頼朝の寝所を守る11人も選ばれているから、腕前もよかったし、人物的にもかわいがられていただろうね。
その11人を「家子」って言うんだけど、最初に書いてあるのがわしで、二番目が下河辺だ。
いまふうに言うならセンター争い。
家子坂頼朝イレブン
のちに下河辺行平が「門葉(源家の親戚)」に準ずる扱いを受けていることからも、この「家子」というのは、頼朝の親類に近い扱いなんだね。
オレも門葉レベルでかわいがってもらいました。
ちなみに、朝光とはおじいちゃんがいっしょだといわれている。
あと、ずっと気になってたんだけど、下河辺はどうして服を着ていないの?
それこそが下河辺の武勇なのだ。
甲冑をつけないというアイデンティティー。
どういうことだ?
下河辺行平の最大の武勇は「九州一番乗り」だ。
平家討伐において、彦島(いまの山口県)に逃げた平家の退路を断つために、源範頼軍は九州を抑えに行ったんだ。
その際、最初に上陸したグループの一人が下河辺行平。
ただ上陸しただけではない。自らの甲冑を売り払って小舟を買い、鎧を付けずに猛進したのだ。
最初の上陸グループにはわしもいたけど、下河辺はすごかったよ。
あとで頼朝さんにむっちゃほめられた。
また、下河辺行平は、「武士の鏡」としての人物像もあって、そのせいか、畠山重忠と仲が良かった。
このエピソードは結城朝光のページでも話したんだけど、あるとき、わしは伊勢国の沼田御厨というところの地頭になっていたんだけど、代官として派遣していた者が乱暴をはたらいたということで、そいつを派遣したわしも捕まってしまった。
武士の恥だと思って絶食していたら、わりとすぐに許されて、武蔵国の菅谷館に帰ってきたんだけど、なんか梶原景時がいいがかりをつけてきたんだ。
鎌倉から離れて、武蔵に行ったのは、謀反を企てているんじゃないですかね。
翌日集まった、下河辺行平・小山朝政・結城朝光・三浦義澄・和田義盛で、畠山重忠を討つか、使いを出すかが話し合われた。
重忠さんは謀反なんてしません。
そりゃそうだ。
そりゃそうだ。
するわけないわな。
絶大な信頼感。
そこで、重忠の「弓馬の友」として、下河辺行平が派遣されることになった。
ようこそ下河辺。
でも、おれに疑いをかけて討っちまおうとする動きがあるのなら、いっそここで腹を切る!
いやいや、重忠の「朋友」のわしが派遣されたのは、わしなら、特にもめることもなく重忠を鎌倉に連れ戻してくると思われているからだ。
(つまり、頼朝さんは、そもそも謀反など疑っていないさ)
そうかそうか、わっはっは。
酒飲む?
わっはっは。わっはっは。
お二人の友情、シビレル、アコガレルゥ!
さて、そのころ、頼朝の勢力の脅威となりそうなところは、奥州藤原氏くらいだったんだけど、奥州藤原氏は、源義経をかくまっていたこともあり、頼朝と対立ムードになってしまう。
奥州藤原氏の藤原泰衡は、義経を自害させて、頼朝と和平しようとするんだけど、頼朝は奥州藤原氏の討伐を決定し、挙兵。
頼朝率いる大軍は、下野国を通って北上。そこに、畠山重忠、結城朝光、下河辺行平などが同行した。
頼朝さんと出発だ!
つぶすぜ奥州藤原氏!
家子の力を見せてやろうぜ!
わしや千葉常胤なんかは、下総の武士団とともにいわき方面へ。
わしは、越後から出羽方面へ。
いまで言うなら・・・
東北自動車道!
常磐自動車道!
関越から北陸自動車道!
こりゃあ、奥州藤原氏はどこへも逃げられないぞ!
この奥州合戦のひとつである「阿津賀志山の戦い」で、行平は活躍するんだね。
頼朝も行平の弓づかいを見ていただろうから、のちに、「日本無双の弓取り」と評している。
そんなわけで、流鏑馬や弓始めなどの儀式ではことごとく射手に選ばれている。
さらには、頼朝の息子である頼家の弓の師範になっているんだ。
たいへんな栄誉。
オレの飲み込みも早かったよ。
最初の巻き狩りで鹿を射止めたのだ。
下河辺の教え方がうまかったんだな。
そのように、「弓といったら下河辺行平」と言われる武将だったのだ。
ただ、政治的な世界にはあんまりかかわってこなくて、頼朝の没後は、畠山重忠の乱の討伐軍に名前があるくらいで、その後の記録はほとんどなくなっている。
畠山重忠の乱についてはこちら。
重忠がいなくなってから、すっかり元気がなくなった。
オレも。
下河辺行平は、畠山重忠の「朋友」だったから、乱後は表舞台に出てこなくなったんだろうね。
結城朝光もほとんど登場しなくなる。
行平と朝光は系図でいうといとこ同士なんだよね。この二人はかなり畠山重忠と親しい間柄だったんだね。
センキュー。
マイプレジャ―。