平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将です。
「十三人の合議制」の一人です。
三浦半島で勢力をもった三浦一族の中心人物として、源頼朝の挙兵に初期から参加しました。
頼朝が鎌倉に入り、武家中心の政治組織を確立していくなかで、初代侍所別当に任じられました。
源範頼と一緒に九州遠征にも行きましたし、平家滅亡後は奥州合戦にも参加しています。
頼朝の死後、梶原景時の変では、景時を追放する側の中心にいました。
比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では、北条氏側に味方しました。
このように、長いあいだ頼朝・北条側についてきましたが、二代執権北条義時と対立し、「鎌倉幕府」対「和田家」という合戦になり、敗死しました。

おじいちゃんが「三浦義明」で、お父さんは「杉本義宗」だね。

わしの孫じゃぞ。

お父さんの「義宗」は、三浦半島よりも鎌倉に近いところに本拠地があったほうがいいなと思って、「杉本」というところに城をつくって住むんだね。だから「杉本義宗」という。
義宗が三浦家の家督を継ぐんだけど、所領をめぐる争いから水軍で安房に遠征したときに、矢に当たってその後亡くなってしまう。そのため、義宗の弟の義澄が三浦家を継ぐことになった。

三浦家はわしが継ぎました。

杉本義宗の長男が「義盛」で、次男が「義茂」。
兄の義盛は、三浦半島の「和田」というところに居住して「和田義盛」となった。
弟の義茂は、「和田義茂」とも言われるし、父ちゃんのかわりに杉本城に入ったから、「杉本義茂」ともいわれるよ。

わしは太郎。

わしは次郎。

源平の合戦では二人とも大活躍。

兄ちゃんは、「俺より矢を飛ばせるやつはいない!」って豪語して、矢に名前を書いて平家側にびゅんびゅん飛ばして、「オレの矢を返してくれないかなあ~。まあ、こっちまで飛ばせるやついないと思うけどお~」っていうイベントをやってた。

おもろい。

でも平氏側から、「仁井親清」と書いてある矢が飛んできて、わしの後方に突き刺さった。
わしは矢飛ばし競争で負けたのだ。

みんな笑ってた。かっこわりいって。

そこで、義経殿が声掛けて、浅利与一がわしの矢を使って射てみたら、だれよりも遠く飛んで行って、仁井親清に命中した。

そいつがすげえ。

那須与一と佐奈田与一と浅利与一で源氏の三与一って言ってた。
みんな弓の名手。

義盛は、早くから頼朝のために戦っている功績もあって、侍所の所司になる。所司には他に梶原景時もいるんだけど、えらいほうを「別当」と言って、それが和田義盛だった。
でも、梶原景時に「ちょっとだけ長官みたいな仕事させて」って頼まれて、「いいよ」って少しやらせてあげたら、そのまま長官の地位までもってかれちゃったらしい。

うまくいったぞ。

でも、梶原景時のには不満をためた御家人も多くて、失脚して追放されちゃう。

うまくいかなかった。

これでまたトップはわし。

和田義盛は、その後の御家人たちの勢力争いでも、北条氏の味方をしてがんばってきた。
ただ、義盛には「上総国の国司になる」という念願があったんだけど、それはかなえてもらえなかった。

「一生のお願い」と言ってもだめだった。
実朝殿は「別にいいよ」って感じだったけど、政子が「だめよ」って感じだった。
しょぼんとした気持ち。

1年くらいたって、和田義盛があいかわらずしょぼんとした気持ちで出張にいっている間に、大事件が起こる。

あるあるだな。
学校でも、難事件が起きるときは、たいてい担任が出張に行っているあいだだ。

すでに10年くらい前、二代将軍頼家は、北条氏の陰謀もあって、殺されてしまっていた。
そのときに、子どもの「一幡」も殺されているんだけど、頼家には他に3人の子どもがいたんだ。
あるとき「泉親衡」という人が、北条義時を打倒して、頼朝の遺児の一人である「千寿丸」を将軍にしようと画策する。
その画策グループに、和田義盛の息子である「和田義直」「和田義重」そして、和田義盛の甥っ子である「和田胤長」が加わっていたんだ。
幕府は彼らを捕縛しにくるんだけど、「泉親衡」は脱出したらしい。

息子たちと甥っ子は捕まってしまいました。
よしもりしょんぼり。ヨションモリ。

しょうげき!

鎌倉に戻った和田義盛が、息子たちと甥っ子を許してくれるように頼むんだ。
息子たちは許されるんだけど、甥の胤長は「中心人物だった」とされて許されなかった。
「許してほしい」とお願いにきた和田家およそ100人のいる前で、胤長は縄で縛られたまま連行されるんだ。その後、陸奥国に流罪となる。

和田家としては屈辱。

胤長のおうちも取り上げるぞ。

今までの慣習にしたがえば、胤長の住居は和田家の管理になるはずなんだけど、北条義時は、この「泉親衡の乱」の平定に活躍した人にあげちゃうんだね。

たびかさなる屈辱。
挙兵するしかない。
なあに、和田家のみならず、親戚の三浦家の力を借りれば、北条をぶったくことができるぞ!

ああ~。
和田義盛のおじいちゃんは三浦義明だったからな。
それに、義明の息子の三浦義澄は、和田義盛の戦友だったはずだ。

三浦義澄は「梶原景時の変」の3日後に亡くなっているから、この時の三浦家の当主は、義澄の息子の「義村」だね。

三浦が出てくるとちと厄介。

よしむらあぁ!
ともに北条を討とうぞ!!

いいよ。
契約書も書くよ。

やべえ。
あとなんか和田軍に超強い奴がいる。

和田軍には朝比奈義秀という武士がいて、この人が相当強かったらしい。

朝比奈義秀はわしの息子。
木曾義仲のパートナーであった巴御前が関東に下ったあと、わしの妻となって朝比奈義秀を産んだと『源平盛衰記』に書いてある。

でもそれだと、義仲さんが挙兵する10年くらい前に産んでたことになる。

まあ、うわさっていうのはそういうもんだな。

それはともかく、おせおせー!
大倉御所と義時の家と大江広元の家を攻めるぞー!
ん?
義村はどこ行ったの?

義村ならこっちだ。

御所をお守りいたす。

なんと三浦義村は大倉御所を守っていた。
これでは「和田」対「三浦」になってしまう。
幕府軍は次々と援軍を増やしていく。

よしむらあぁァ!!
なんでお前がそっち側にいるんじゃあぁァ!!

勝ちそうな方に乗る。
それがオレ。

由比ガ浜にいったんは退却しつつも、再び鎌倉に攻め入るんだけど、次々増えていく幕府軍の前に、ついに義盛の息子である義直が討たれてしまう。

今は戦う甲斐もなし・・・

号泣している和田義盛が討たれしまい、和田合戦は決着となった。

なんとも悲しい幕切れ。

和田家が滅亡した場所には、「和田塚駅」という駅があるよ。

今度行ってみるか。

和田義盛がいなくなったあとは、侍所の別当は誰になるの?

わし。

義時は政所の別当だろう!

両方やることにした。

侍所のトップと政所のトップを兼任するなんて・・・
そこにシビレル、あこがれるうゥ!

三浦義村が北条義時を崇拝し始めているぞ。

こうやって、義時以降の執権は政所と侍所の別当を兼務するようになった。
そしてそこには北条氏だけが就任した。
北条氏の「絶対的権力」が義時の時代に完成していったんだ。