結城朝光のお母さんは寒河尼という人で、源頼朝の乳母の一人だった。
寒河尼の弟が八田知家。
八田知家についてはこちら。
じゃあ、寒河尼は、比企尼といっしょに幼少期の頼朝のお世話をしていたんだな。
そうやで。
頼朝が伊豆に流されているときには、小山政光の後妻になっていたので、政光の所領である下野国小山荘に住んでいた。
小山ゆうえんちのおやま?
楽しかったなあ。スカイパラシュート。
さて、頼朝は挙兵後第二戦目の「石橋山の戦い」で敗れるものの、安房にわたり、三浦一族や千葉一族をしたがえて再起する。
頼朝が、武蔵国の墨田のあたりに陣をはって休んでいた時に、寒河尼が末っ子を連れて頼朝を訪ねにくるんだね。
懐かしい話を交わしたのち、寒河尼は、その末っ子を頼朝の側近にしたいと言うんだ。そこで頼朝が烏帽子親となり、その子は小山宗朝と名乗るようになる。彼がのちの結城朝光(小山朝光)だ。
当主の子どもの烏帽子親になってもらうくらいだから、「小山家として頼朝にお仕えしますよ」という意思表示みたいなものなんだね。
頼朝は、小山ゆうえんちも味方につけるのだな。
朝光のお兄ちゃんの小山朝政も、その後すぐに頼朝にしたがうようになる。
朝光のお父さんの小山政光も、このときは大番役で京に行っていたけれど、下野国に帰ってきてすぐに頼朝の御家人になる。
朝光はというと、頼朝の寝所を警備する11人のうちの一人になっている。
オレもその11人のうちの一人。
わしもメンバーだった。
なつかしいね、みんな。
寝床を警備するなんて、相当な信頼だよね。
気を許した人物にしか寝所は守らせないからね。
結城朝光なんかは、実の息子のようにかわいがられていたらしいよ。
結城朝光は、実は頼朝さんの子どもだったって説もあるくらいだからな。
なんと!
寒河尼の娘が、伊豆に配流中の頼朝のお世話をしていて、そこに子どもが生まれ、寒河尼の娘はその子を実家に預けて、寒河尼の末っ子として育てたという説がある。
ただ、裏付けとなる資料は存在しない。
頼朝があまりにも結城朝光をかわいがるから、「実の子なんじゃないの?」っていううわさになったということなんじゃないかな。
まあ、朝光は実際のところ愛されキャラだったからな。
自分は重忠さんを心から尊敬していましたよ。
さて、頼朝が鎌倉に入るころには、関東の多くの武士団は頼朝にしたがっていたんだけれども、源為義の息子である志田義広(源義広)は、常陸国信太荘(いまの茨城県稲敷郡)で独自の勢力を築いていて、頼朝にしたがう意思を示していなかった。
なんで?
常陸国は平氏の知行国で、周辺には平氏の勢力もあるから、世の中の情勢を見極めようとしていたのかもしれない。
あるいは、義広のお父さんの為義が、義朝と敵対していたこともあるから、その息子である頼朝にもともと敵意があったのかもしれない。
あるいは、信濃で挙兵する木曾義仲のほうとつながっていて、頼朝軍ではなく義仲軍のほうに行きたかったのかもしれない。
いずれにしても、義広は最初のうち動向をはっきりさせていなかった。
ふむふむ。
ところが、あるとき、義広が鹿島神宮の所領を横領したという話が持ち上がって、頼朝がそれに対して「ダメだよ」って言ったらしいんだ。
義広からしてみると、頼朝は甥っ子にあたるから、「甥っ子にダメ出しされるなんてうぜえ」って感じになって、頼朝の討伐軍を編成しはじめる。
こりゃあ、合戦になるな。
志田義広は、常陸国から進軍し、下野国にやってきた。
そこで待ち構えていたのが小山軍。志田義広らは小山氏が協力してくれると思ってたんだけど、実際は小山氏は頼朝側についていた。
ここで小山朝政らの小山軍と、八田知家らの八田軍が連合となり、志田義広の軍を撃破した。これが野木宮合戦という戦い。
これ以降、頼朝を打倒しようとする勢力は関東にはいなくなった。結果的に、頼朝の関東平定の最終決戦みたいになる。
寒河尼からしてみれば、実家(八田家)と、嫁ぎ先(小山家)の連合軍。
レディースの族長のもとに、二つの族が連合するようなもんだな。
朝光自身は鎌倉で頼朝に仕えているから、この合戦そのものには参加していないけど、ふだん朝光が編成している軍は戦っている。
なお、『吾妻鏡』の記述のなかに源範頼の名がはじめて登場するのは、この野木宮合戦だ。
小山朝政らとともに戦っている。
のちに西国に逃げた平家軍を追い詰めた「範頼・義経軍」の「範頼」だな。
ところで、志田義広はその後、木曾義仲軍の仲間入りをして、義仲とともに入京している。
もともと常陸国の信太荘から小山方面の野木宮に向かうとなると、鎌倉とはまったく違う方向なんだよね。だから、もともと鎌倉を目指していなくて、信濃や北陸に勢力を持っている義仲に近づこうとしたのではないかとも言われている。
頼朝はおじさんである義広に対して、この時点では追っ手を差し向けることなどはしなかったのだけれども、その後、結果的には頼朝と義仲が敵対したこともあって、義仲が粟津の戦で討たれた数か月後に、伊勢国で追討された。
わしが討たれたあとに、義広さんも討たれたんだな。
「野木宮合戦」に先立って、頼朝は鶴岡八幡宮で必勝祈願をおこなっているんだけど、そばに控えていた結城朝光は「義広は今ごろ朝政に滅ぼされているでしょう」なんてことを言うんだね。
頼朝は、「神のお告げじゃないか、それ!」と大喜び。
そのとおりになったら、褒美をあげるよって言ってくれました。
この「野木宮合戦」の後、朝光は、下総国結城郡(いまの茨城県結城郡)の地頭に任命されている。「褒美」の一つだろうね。
ああ~、それで「結城朝光」となったのか。
神のお告げを受けちゃうあたりが頼朝さんに気に入られるんだよなあ。
おれたちおっさんが言ってもしらけるけど、結城朝光みたいなジャニーズジュニア系が言うと、本当に神のお告げがあったみたいに思うよな。
さて、結城朝光は、その後、平家討伐軍として、壇ノ浦までずっと戦い続けている。
平家討伐後、義経と頼朝が不仲になった際、義経が鎌倉までやってくるんだけど、そのときに「鎌倉に入っちゃダメ」という頼朝からの伝言を言いに来たのが結城朝光だ。
ちなみにそのとき、「兄ちゃんにはむかうつもりなんてないよ」という義経からのお手紙の宛先になったのがわし。
ちなみにその前に頼朝さんに「義経さんはまるでダメっスよ。大将の器じゃないっスよ」というお手紙を出しているのがわし。
景時はすぐに悪口を言うからなあ。
ちなみに朝光のおじさんであるわしも、義経さんといっしょに任官されてたから、頼朝さんからは「関東に戻ってきちゃだめだよ」と叱られてた。
まあ、そんな感じで、朝光は頼朝の指示でテキパキ動く「出木杉くん」だったのだ。
しかも、頼朝になついているだけじゃなくて、いろいろな人に配慮のできる人物だったのだ。
あるとき、わしは伊勢国の沼田御厨というところの地頭になっていたんだけど、代官として派遣していた者が乱暴をはたらいたということで、そいつを派遣したわしも捕まってしまった。
武士の恥だと思って絶食していたら、わりとすぐに許されて、武蔵国の菅谷館に帰ってきたんだけど、なんか梶原景時がいいがかりをつけてきたんだ。
わしが頼朝さんに、「畠山重忠が謀反を起こそうとしてるんじゃありませんかね?」って言ったんだ。
梶原は、すぐに謀反に結び付けるんだよなあ。よくないクセだよ。
そのときに畠山重忠を必死にかばったのが結城朝光。
謀反なんて考える人じゃないと、懸命に弁護したのだ。
ありがとう朝光。
重忠さんはそんなことしないっス。
畠山重忠は、謀反を考えていないなら起請文(誓約書のようなもの)を書けと言われるんだけど、「自分には二心(裏切る心)などないから、起請文を書く必要はない」と言って、書くことを拒否した。
かっけーわ、重忠さん。
態度わりーから罰せられるだろこれは。
頼朝は、この勇敢な態度に感服し、むしろ褒美をあげた。
ズコーッ!!
その後、奥州合戦がはじまるんだけど、朝光はそこで大活躍して、奥州白河(いまの福島県白河市)の所領をもらう。
朝光の孫がこの地に移り住んだのが、「白河結城氏」のはじまりだ。
東大寺が再建された際には、頼朝の上洛に付き添っている。
「南都焼き討ち」で焼けちゃった大仏殿とかを、重源や陳和卿たちが修復したやつだな。
おっす。
そのとき、東大寺で男たちの乱闘騒ぎがあったらしいんだけど、朝光の鮮やかな弁舌で、騒ぎは静まった。
朝光はこの件で、「容貌美好、口弁分明」という評判になっている。
「かっこいいわ、あと、お話も上手よ」ということだな。
ちなみにこのとき最初にその騒ぎをしずめようとしたら、「態度が傲慢でいやだ」と、かえって騒ぎを大きくさせちゃったのが・・・
わし。
かじわらぁ。
その後、頼朝が亡くなり、頼家が家督を継ぐんだけど、結城朝光は頼家を主君とはみとめなかったようだね。
朝光は、あまりにも頼朝さんが好きだったもんだから、二代目の頼家さんにはぜんぜんなつかなかったよな。
ああ~。「本当の忠君は二人には仕えねえよ」って言っちゃってたからな。
そんで、わしは、「朝光には謀反の心があるのではないか?」って頼家さんに告げ口したんだ。
だから、なんでも謀反に結び付けるのヤメロ。
結城朝光が「なんかオレ、梶原に謀反の疑いかけられてる」と言ったら、なんと66人が朝光に味方してしまい、逆に梶原景時を追放させる連判状が作成される。
中心となって呼びかけたのはオレだ。
朝光に謀反の心があるなんて、ひでえ言いがかりよ!
梶原を許さねえぞ!
ありがとう義村。
66人! 梶原大敗北!!
なんか、朝光は人気があったんだよなあ。
でも、その後、「畠山重忠の乱」でわしが討たれちゃうと、嘆き悲しんで、あんまり意見とかを言わなくなっちゃった。
悲しかったんだろうな。
結城朝光は、頼朝と畠山重忠が大好きだったらしいね。頼朝を父のように、重忠を師のように慕っていた。
ただ、その後も幕府の中枢に存在していて、承久の乱では東山道の将軍として京に攻め上っている。
いっしょにがんばりました。
わしが「評定衆」を設置したときなんかは、朝光にメンバーになってもらいました。
なんか「戦友」って感じがするよな。たぶんオレ同級生だし。
義村とは、ともにいろいろ戦ってきたよな。
三浦家と結城家は、頼朝挙兵時のはやい段階から一緒に戦ってきたからね。
三浦家は、義村の息子の泰村の代に「宝治合戦」で滅亡してしまうんだけど、その時に結城朝光は、かなりの老齢になっているのにもかかわらず、下総国から鎌倉に出向いて、「自分がいればこんなことにならなかった」と泣いて悲しんだという。
おれっちの息子のための涙・・・。センキュー。
あちい。
結城朝光の子孫は、「下総結城氏」と「白河結城氏」になるんだけど、結城氏の家系図では、結城家の資料によると、「朝光は源頼朝の嫡子だったが、頼家・実朝が家督を継いだので、下総にわたった」と書かれている。
じゃあ、頼朝の血筋は断絶した聞いていたけれども、もしかしたら、ここに残っていたのかもしれないのか・・・。
もしかしたら、そうかもしれない。
あちい。