足立遠元は、もともと頼朝のお父さんの義朝につかえていたこともあって、頼朝の挙兵前から参加する意を示していたようだね。
頼朝を流人時代から支えてきた安達盛長は、遠元のお父さんの弟なんだ。つまり、遠元から見ると安達盛長はおじさんにあたる。その関係で、かなり早い段階で盛長から呼びかけられていたんじゃないかな。
義朝の時代から仕えていて、ゆくゆく十三人の合議制のメンバーになるということは、かなり重要人物だったんだな。
そうだね。
足立遠元は、かなり早い段階で武蔵国足立郡を本領安堵されている。頼朝による関東の武士への最初の本領安堵とされているよ。
足立はとにかく広い。
いまの東京の足立区から、いまの埼玉の鴻巣のほうまである。
わしの領土のお隣さんなわけだな。
まあ、直実さんは、頼朝さんを怒らせちゃったから、領土の半分を没収されちゃったけどね。
おーい。何をしたんだ?
鶴岡八幡宮の流鏑馬で、的を立てる役になったら、「オレ、射るほうをやりたい!」ってわ駄々をこねた。
それで、頼朝さんが、「射るほうと的を立てるほうで身分の上下があるわけじゃなくて、立てるほうも重要な役だからなりなさい」って言うんだけど、「いやだ」って言って結局やらなかった。頼朝さんは激おこ。
うわあ。没収が半分で済んでよかったね。
短気は損気!
教養あふれる足立遠元なら、そんな結果はまねかない。
ほう。足立遠元は教養があふれているのか。
「平治の乱」で六波羅を攻めた時にこんなエピソードがある。
同じ関東武士の金子家忠の太刀が折れちゃって、ちょうどそこへ来た足立遠元に「脇差を貸してほしい」と頼むんだ。
遠元は脇差をもっていなかったから、ちょうど前にいた自軍の郎党の太刀を取って、金子家忠に渡す。家忠はとても喜んで、また敵をいっぱい討った。
教養あんまり関係ねえな。
そしたら、太刀を取られたほうの郎党が、「え・・・、それ、オレの太刀・・・」ってなって、ショックを受けちゃうんだ。
まあ、そうなるわな。
そしたら、遠元は、馬を降りて近づいて、「 漢朝の季札も徐君に剣を請はれては、惜しまずとこそうけたまはれ。しばらく待て」って言う。
「むかしの中国で、季札という人が、徐の国の君主が剣を欲しがっていたことを察して、亡くなった後ではあったけれど、墓のそばの木に剣をかけて置いていった」という故事を例に出して説諭するんだね。
教養があふれてきたぞ。
しかも、それだけじゃない。そこに敵方が三騎やってくる。
遠元はすかさず弓矢で射て、一騎倒して、刀を奪い取って、「この太刀を取らせるぞ」と言って郎党に渡すんだ。
敵の残り二騎は、もう近づいてこなかった。
かっけえぇ~!
こりゃあ、本領も安堵されるわ!!
ふむ。これはわしが馬を背負って崖を降りたエピソードに匹敵するかっこよさだな。
あるいは、わしが頼朝さんの寝所の床下に忍び込んだ者を抜群の危機察知能力で見つけたエピソードにも匹敵するかもしれませんな。
いやいや、わしが平敦盛を討ち取ったあと、笛を見つけてさめざめと泣くエピソードに・・・
いやいやいや、それならば、わしが矢に名前を書いて、平家軍の後方にシャキシャキ飛ばしたエピソードこそ・・・
なんのなんの、そのくらいならば、わしが石橋山で頼朝さんを見つけておきながら、悠然と見逃したエピソードに比べれば・・・
武勇を競いはじめたぞ。
「武」についていえば、みんないろいろ言いたいことがあるだろうね。
でも、足立遠元がすごいのは、「文武」だったところ。
頼朝によって「公文所」が設置されたときは、大江広元が別当になり、中原親能、二階堂行政、藤原邦通、足立遠元が寄人になった。
わしは文章博士の家系。
わしは明法博士の家系。
藤原邦通さんは、わしがスカウトして頼朝さんの右筆(秘書的な役割)になった人で、出身は公家だよ。
わしは武士。
鎌倉幕府の頭脳集団に、武士が一人だけ混じっているぞ!
さっき出てきた「平治の乱」のエピソードが示しているように、武士の中では、教養があって、冷静な判断力があって、「合理的解決思考」の人物だったんだね。そういうところが、「文武」の「文」の面でも頼朝に評価されたんだ。
他の武士は、「合理的解決思考」じゃないの?
たとえば、畠山重忠が謀反の疑いをかけられて、そうじゃないなら、起請文(誓約書のようなもの)を書けと言われたときは・・・
「わしが裏切ることなどありえないから、起請文など書かん!」ってキレ気味に返事した。
たとえば、和田義盛が、「俺より遠くに矢を飛ばせるやつは平家軍にいないだろう!」って挑発していたら、平家軍からもっと長距離で射返してきた者がいて、味方に「恥ずかしいね」と笑われたときは・・・
このままでは引き下がれないと思い、舟に乗って平家軍に近づいて、むちゃくちゃ散々に大量の矢をキレ気味に射た。
たとえば、梶原景時が、石橋山の戦いのときに洞穴に隠れている頼朝を見つけて、「見逃します」と言って洞穴から出てきて、他の武士が「なんだか怪しい」と思って洞穴に入ろうとしたときは・・・
「オレが誰もいないと言ったらいない! 入ったらただじゃおかないぞ!」ってキレ気味に入口をふさいだ。
キレッキレなんだよなあ。一般的な武士は。
まあ、だからこそ問題が解決することもたくさんあるんだけどね。
少なくとも「冷静で合理的な対応」ではない。
でも、一番キレてるのは、頼朝さんの浮気相手の家をブチ壊した政子さんだけどな。
それな。
政子さんに比べたら、わしらみんな冷静で合理的だよな。
それな。
まあそんなわけで、足立遠元は、「文武両道」の人物として頼朝に重宝されるんだね。
親戚関係もにぎやかで、娘さんたちは「後白河院の側近である藤原光能」「六波羅探題・連署を務めた北条時房」「何でも持てる畠山重忠」の妻となっている。
大人物ばかりだな!
ちょっ、わしの説明、雑!
そういった交流関係も幅広かったので、足立遠元は、とにかく「いろんなことを知っている武士」として重宝される。
なにしろ、娘の夫が、ゆくゆくは正三位に叙せられる藤原光能であるわけだから、都の情報はどんどん手に入る。
頼朝が「親鎌倉派」の公家たちとも接点を持つうえでは、遠元は欠かせない存在になっているんだね。
「親鎌倉派」の公家はけっこういたの?
大江広元・中原親能・二階堂行政・三善康信なんかは、もともと公家だからね。
それに、本来は敵対していたはずの平家のなかにも、親鎌倉派で、頼朝と連絡を取り合っていた者もいた。
なんと!
「平家」なのに「親鎌倉派」なのか!?
代表的なところとしては。平頼盛という人がいる。
この人は平清盛の異母弟なんだ。
き、清盛の弟が頼朝派だというのか!?
事情もいろいろあった。
頼朝の挙兵からおよそ20年さかのぼって、「平治の乱」で義朝・頼朝は敗軍になってしまう。その後、平頼盛は、尾張守という国司になる。東国に落ち延びようとする源義朝側の武士を捕らえる目的があったんだろうね。
そこで、頼盛の家人である平宗清が目代となり、尾張国周辺を見張っていた。
逃げてきた頼朝は美濃国まで来るんだけど、吹雪で前後不覚になっているところを、近江国の草野定康に保護されてかくまってもらうんだ。
春になり、雪が解けたときに再び美濃国に入った頼朝は、平宗清に見つけられ、六波羅に護送されてしまう。六波羅というのは、清盛たち「伊勢平氏」の居住区ね。
ほほう。
ここで、平清盛に対して、頼朝の助命を嘆願したのが、平頼盛の母である池禅尼という人。
『平治物語』によれば、宗清から「頼朝が平家盛(池禅尼の早逝した息子)の幼い頃に生き写しである」と聞いた池禅尼が、平重盛(清盛の息子)に相談して、清盛に助命の嘆願をしてもらうんだけど、最初は許されない。
池禅尼は落ち込んで、食事ものどを通らない。そこで今度は、重盛と頼盛で池禅尼の現況を伝えに行く。
清盛の息子と弟でお願いするんだな。
そして、食事もできずに倒れている池禅尼は、平忠盛(清盛の父)の後妻だから、清盛からしてみれば継母にあたる。
重盛と頼盛から、「池禅尼が何にも食べていません」って聞いて、さすがの清盛も心が動いてくる。そうした中で処刑の予定日はどんどん延びていく。その間、平宗清は、頼朝に同情心を寄せ、話し相手になっている。最後は清盛が折れて、頼朝は死罪ではなく、流罪ということになる。
おそらくだけど、義朝・頼朝が仕えていた上西門院(後白河院のお姉さん)や、熱田神宮(頼朝のお母さんの実家みたいなところ)なども、頼朝の助命のために動いていたとされている。
なるほど、平家ではあるものの、平重盛、頼盛、宗清なんかは、頼朝の命を救ったことになるんだな。
この約20年後、木曾義仲の入京によって都が混乱して、「源氏」対「平氏」の合戦がクライマックスをむかえるころに、平頼盛は鎌倉に来ているんだ。
オレが都に入った時、ほとんどすべての平家は都落ちして西国に逃げていったんだけど、平頼盛は山科(都の東のほう)を守りに行っていたんだね。連絡が行き違ったこともあって、置いていかれちゃうんだ。
『平家物語』では頼盛が平家を裏切ったという感じで書かれているんだけど、頼盛には頼盛の言い分があると思うよ。
そのあと鎌倉に行ったんだろうけど、頼盛の意志だけじゃなくて、頼朝との連絡係がほしい後白河院から「行け」って言われたのかもしれないね。
頼朝は「父のように」頼盛をもてなしたとされている。一緒に舟に乗って散歩したりもしている。
この平頼盛が帰京するときに、遠元は餞別の宴にまねかれているよ。
他にも、三浦義澄・結城朝光・八田知家・畠山重忠などが、「京を知っている者」として招かれている。
お酒注文担当。
ギョーザ担当。
掛け声担当。
酔いつぶれた人を二次会まで運ぶ担当。
それから、一条能保という人も鎌倉にやってきている。
能保の妻は坊門姫という人で、頼朝のお姉さん(または妹)にあたる。当時は「異母兄弟(姉妹)」という関係が多いんだけど、頼朝と坊門姫は、同じお母さん(由良御前)から生まれた間柄なんだね。
ちなみに由良御前のお父さんの妹の息子がわたしです。
ということは、由良御前(頼朝のお母さん)と二階堂はいとこなんだ。
二階堂が鎌倉に下ったのも、そういう間柄だったからなんだな!
そうだね。記録には残っていないけど、二階堂行政とか藤原邦通とかが鎌倉に来たときなんかも、足立遠元とか三浦義澄とかが、「歓迎の宴」みたいなものをやってたんじゃないかな。
まあ、鎌倉時代の「記録」という営み自体、二階堂から始まっていると言っても過言ではないからな。
さて、この一条能保の娘と、九条兼実の息子が結婚していて、その孫が「三寅」なんだね。
三寅さん・・・?
四代将軍の頼経さんのことじゃねえか!!
つまり、一条能保は、のちに四代将軍となる藤原頼経(九条頼経)のひいおじいちゃん。
超VIPだな。
能保さんが鎌倉にいらしたときは、わしの家に泊まりました。
東国は武家社会だから、やはり武士がもてなしたい。とはいえ、教養がないと会話にならないから、知性がほしい。もっといえば、公卿クラスを接待するなら、京との血縁がある者が最もふさわしい。
そこで活躍したのが「文武両道」「親戚豪華」の足立遠元なのだ。
ほめすぎ。
このとき入京して「京都守護」をしていてのは、北条時政だったけれど、一条能保はその後任として京に戻っている。
鎌倉を離れるときに「餞別の宴」を催したのが足立遠元の屋敷で、ここに、源頼朝・北条政子・一条能保・坊門姫たちが集っていたことになる。
「のちの鎌倉幕府初代将軍」「のちの尼将軍」「のちの従二位」「頼朝の同母姉(妹)」が一同に会すわけだから、ハンパな屋敷じゃねえな。
現存していれば観光名所だっただろうね。
残念ながら、遠元の鎌倉の館はどこにあったのかもわかっていない。
む・・・それは残念。