十三人の合議制とは
源頼朝は鎌倉幕府の初代将軍だったな。
二代目を決める前に頼朝が亡くなったので、幕府は大慌てで引き継ぎにあたるんだ。
頼朝と政子の子どもである頼家が18歳で家督を継ぐよ。
ただ、頼家は従来の慣例を軽視していて、勝手に決めてしまうことが多かったみたいだね。自分勝手に政治をしているという評判になり、御家人からの不満もたくさん出てくる。
政治家も「二世はだめ」とか言われやすいしな。
そこで鎌倉幕府は「十三人の合議制」という制度をつくるんだ。
大江広元・中原親能・二階堂行政・三善康信・梶原景時・足立遠元・安達盛長・八田知家・比企能員・北条時政・北条義時・三浦義澄・和田義盛
以上の13人で合議して幕府のことを決めていくというスタイル。
実際にはこの13人が集まって議論するというわけではないみたいだけど、将軍の独裁をみんなでおさえるぞという感じだった。
え……。
これ全部覚えないとダメ?
できるだけでいいよ。
ここで言いたいのは、北条時政と北条義時が親子だということ。
この重要な13人の中に、北条氏は2人も入っているんだ。しかも親子。
ふむ。
この十三人の合議制が長く続き、鎌倉幕府を安定させるということか。
それがそうでもなくて、すぐ解散しちゃう。
え?
こんな豪華メンバーなのに!?
メンバー解散にいたる道筋は、メンバーの記事を見てくださいな。
できれば『吾妻鏡』も見てね。
『吾妻鏡』は北条氏がけっこう話を盛ってるから気をつけてね。
独裁を抑えられた人
源頼家
カリスマ頼朝の息子なのに、自由がきかないなんてあんまりですよね。
13人の合議制のメンバー
足立遠元 あだちとおもと
頼朝さんから足立を本領安堵してもらいました。
文武両道の側近です。
安達盛長 あだちもりなが
頼朝さんとは伊豆の流人時代からのお付き合いです。
大江広元 おおえのひろもと
文章関係の博士の家系です。政所の初代別当です。
梶原景時 かじわらかげとき
石橋山の戦いで敗れた頼朝さんを見つけたけど、見なかったふりをしました。そのこともあって、鎌倉幕府では重用されました。
和田義盛に代わって侍所の別当をやりましたが、人の悪口を言いすぎて追放されました。
中原親能 なかはらちかよし
法律関係の博士の家系です。
公事奉行人として様々なものごとを処理しました。
二階堂行政 にかいどうゆきまさ
政所令になり、のちに広元さんとともに別当になりました。
永福寺の近くに住みましたが、そこが二階建てのお堂だったことから、二階堂と名乗りました。
比企能員 ひきよしかず
義理の母(比企尼)が頼朝さんの乳母だったことから、頼家さんの養育係になりました。
八田知家 はったともいえ
幕府の重臣として、おもに今の茨城県のほうをおさめました。
北条時政 ほうじょうときまさ
頼朝挙兵前からのサポーターです。娘は頼朝の妻の政子です。初代執権といわれています。
謀略をめぐらせすぎて、娘と息子に追放されました。
北条義時 ほうじょうよしとき
鎌倉幕府二代執権です。
承久の乱で勝利し、幕府の勢力をいっそう拡大しました。
三浦義澄 みうらよしずみ
兄(義宗)が死んだことで、三浦家の家長になりました。鎌倉幕府の有力な家としては、北条家に次ぐのが三浦家です。
三善康信 みよしやすのぶ
出身は京ですが、頼朝さんにさそわれて鎌倉に来ました。
問注所の執事を長く勤めました。
和田義盛 わだよしもり
三浦家の分家として和田家をつくりました。弓矢を遠くに飛ばせます。
侍所の別当だったのに、気が付いたら梶原景時が別当になってました。