千葉胤正 ―再起をはかる頼朝軍に 参入しようと父に進言 親子で千葉氏を盛り立てた―

人物
千葉胤正 ちばたねまさ

平安時代末期~鎌倉時代前期の武将です。

お父さんは千葉常胤ちばつねたねです。お母さんは秩父重弘ちちぶしげひろの娘です。

石橋山で敗走した源頼朝よりともが、安房に上陸し再起をはかった際、頼朝にしたがっています。千葉胤正たねまさが、父常胤つねたねに対し、頼朝軍への参入を勧めたといいます。

頼朝の寝所を警護する11人の家子に選ばれています。奥州合戦にも従軍しました。

奥州合戦後、藤原泰衡やすひらの郎党であった大河兼任おおかわかねとうの反乱が起きたときは、追討軍の大将軍として平定にあたりました。

頼朝からの信任が厚く、頼朝上洛時、仙洞御所(後白河院)に参上した際には、布衣ほい侍の7名に選出されています。

頼朝軍に参入するように、父ちゃんを説得したのか。

説得したというよりも、なかなか返事をしなかった常胤に「早く早く」とせかしたらしいよ。

千葉胤正
千葉胤正

安達さんが返事を待ってたから。

安達盛長
安達盛長

頼朝さんにしたがうようにお願いしに来たのはわし。

父の常胤がなかなか返事をしなかったのは、「源義朝に従軍したことがあるため、息子の頼朝が挙兵したことに感極まって泣いていた」という説もあれば、「同族である上総広常に相談したかった」という説もあるよ。

千葉胤正
千葉胤正

まあ、どっちもだったんだろう。

上総氏の家臣ではないから、千葉氏は千葉氏として参戦を判断すればよろしい。

このへんで、常胤が、頼朝に「鎌倉入り」を勧めたと言われているね。

鎌倉は何より海・山に囲まれた自然の要塞だし、「源氏」の血脈をいっそうアピールするには、源頼義・義家からはじまり、義朝も居住した鎌倉を拠点とするのがいいからね。

千葉胤正
千葉胤正

「源氏」の氏神としての鶴岡八幡宮もあるしね。

胤正は、頼朝の寝所を警護する11名にも選出されている。

これは「北条時政の息子」とか、「八田知家の息子」とか、いわゆる「二世」的な人材を育成する側面も併せ持った「頼朝親衛隊」のようなものだった。

結城朝光
結城朝光

GO GO 頼朝

梶原景季
梶原景季

頼朝 ヨ リ ト モ 

下河辺行平
下河辺行平

Lエル Oオー Vブイ Eイー

和田義茂
和田義茂

YO RI TO MO

北条義時
北条義時

まあ、みんながどんなにがんばってもセンターはオレだけどな。

梶原景時
梶原景時

ちっ 義時め。

がんばれ、わしの息子。

八田知家
八田知家

わしの息子もがんばれ。

御家人の学芸会みたいになってきたぞ。

この「家子」の11人は、頼朝の身辺警護を主な役割としているから、頼朝が遠征するときは、やはり複数人でついて行って、もろもろのお世話もするんだね。

11人のうちの一人、榛谷重朝はんがやしげともなんかは、奥州合戦に際に頼朝の馬を毎日洗ってたって言うからね。

千葉胤正もその例にもれず、頼朝が後白河院に会いに上洛した時は、布衣侍の7名として供奉ぐぶ(儀式や祭礼のときのお供)をしている。

布衣侍ヌノギヌザムライってなんだ?

これは「ほいじ」か「ほいの〇〇」って呼んでたと思う。

布衣ほいっていうのは、官服に対する平服のこと。

貴族が着る服ではなくて、庶民が着る服ということだね。

頼朝が上洛した時に、千葉胤正たちに貴族としての官位官職があるわけではないので、布衣ほいで頼朝の後ろについたということだろうね。

布衣侍の「侍」は「サムライ」って読まないの?

「侍」は「じ」で、動詞なら「はべり」と読むことが多い。または「さぶらふ」。これを「さむらい」と読むのはもうちょっとあとの時代だと思う。

布衣侍の「侍」をなんて読むのかはよくわからないんだけど、意味は「貴人のそばに控える」ということ。

普通に音読みすれば「じ」だから、連続して読むなら「ほいじ」でいいんじゃないかな。

当時は「ある漢字」に対して、わりといろんな読みを「当てる」ことも多いから、「侍」を「かみ」「すけ」「じょう」などと読むこともある。

だから、「ほいの〇〇」という特別な読み方はあったかもしれない。

ヌノギヌザムライじゃないんだな。

たぶん「ほいじ」か「ほいの〇〇」だろうね。

ちなみに、7人というのは、三浦義澄、千葉胤正、工藤祐経、足立遠元、後藤基清、葛西清重、八田知重。

三浦義澄
三浦義澄

ほい

千葉胤正
千葉胤正

ほい

足立遠元
足立遠元

ほい

八田知重
八田知重

ほい

こうやって、ほいほい言ってついて行ったのかな。

そんなわけではないけれど、メンバー的には大物ぞろいだよね。

千葉胤正も頼朝から相応の扱いをされていたことが分かる。

後白河
後白河

わしにもあんな付き人たちがほしかった。

後鳥羽
後鳥羽

わしも。

そのときの天皇は後鳥羽。上皇が後白河。

後鳥羽は、このときに上洛したメンバーの多くと、のちに承久の乱で対決することになるんだね。

千葉常胤・胤正親子は、頼朝の没後の数年後に逝去しているけれど、千葉氏は代々下総国の守護を務めて、鎌倉幕府を支える有力氏族として活躍していくんだ。

千葉胤正
千葉胤正

まあ、父ちゃんの功績が大きくて、後世の千葉氏は「たね」の字を使う子孫が多かったよ。