平安時代の後半には、「荘園」を守るために、武装した集団が出てきた。
「荘園」についてはこちら。
さて、荘園という土地は、一般的には「受領(任地に赴いた国司)」が監督するんだけど、彼らの中には、任期を終えても京に戻らず、定住する人がけっこういた。
新しい受領が横暴だったりすると、農民は「元受領」を頼るようなことも増えていって、役職に関係なくリーダーとして武装集団をまとめていくんだね。
暴走族の13代目がメンバーをまとめるのが下手すぎて、引退したはずの12代目が実質的に族をまとめているような感じだな。
さらに、隣町やそのまた隣町の暴走族と連合したりして、一大勢力を作ってしまう。むしろ「一つの族」のリーダーにとどまらない活躍をしてしまうんだ。特定の族を引退しているからこそ、逆に「さらにでかい集団」のリーダー格になってしまうんだ。
ヤベエ。
代表的なのが「平高望」という人物。
桓武天皇の孫(または曾孫)にあたる人物で、もともとは「高望王」なんだけど、臣籍降下をして「平」の氏を与えられるんだ。
臣籍降下ってなんだ?
「臣」っていうのは「仕える側」のこと。
たとえば、「大臣」とか「家臣」とかいうのは、王とか家長とかに仕えているということ。
「天皇」とか「上皇」とか「皇太子」といった「皇室の人々」は誰かに仕える立場ではないんだけど、この皇室から外れて、「単なる貴族」になるのが「臣籍降下」。
皇室の人は「高望」とか「経基」とか名前だけがあるから、「臣籍降下」をすると「源」とか「平」とかいった「氏」が与えられるんだ。
皇室にいるあいだは「高望」だけど、臣籍降下をして「平」という「氏」を持つようになったから、「平高望」となるのか。
そして、平高望は「上総介」という国司になる。
国司のなかには、任地に行きたがらない人も多くて、「遙任」といって、代わりの者を派遣する場合も多かったんだけど、高望は三人の子どもを伴って上総に行くんだね。
高望の家族は任期が終わってもそのまま関東にとどまるんだ。子どもを、常陸や下総の豪族の娘と結婚させて、常陸・下総・上総をどんどん開拓していくんだね。
関東は「源氏」の勢力があったんじゃないの?
先に関東で勢力を広げていたのは「平氏」なんだ。
そのあと、清和天皇の孫である「経基王」が臣籍降下して「源」の氏を与えられるんだ。それによって「源経基」となのる。
彼がついたのが「武蔵介」だったんだけど、武蔵の豪族は経基が土地調査をするのを拒否したらしくて、争いになったらしい。
それをおさめにきたのが、平高望の孫にあたる「平将門」だった。
教科書に載っている人だ。
源経基は、「やべえ」と思って、京に戻って、「平将門は朝廷に対して謀反の疑いがある」と言うんだね。なにしろ国司の命令にしたがわない豪族のほうの肩を持っているんだから。
ふむふむ。
ところが、平将門は、常陸・下総・上野・下野・武蔵という5つの国から、「将門さんは謀反なんて考えていません」という証明をもらってきて、太政大臣である藤原忠平に送るんだね。
それで、経基は、朝廷から「ウソついてんじゃねーよ」ってしかられちゃう。
ということは、この時点では、関東の大部分は、平氏の味方だったということだな。
ところが、その後、霞ケ浦のあたりの農地をもっていた藤原玄明という豪族が、あまりにも国司のいうことを聞かないもんだから、逮捕されそうになっちゃう。
そのとき玄明をかくまったのが平将門なんだ。将門は兵を集めて常陸国府に行って、「玄明を捕まえようとするのをやめろ」と言うんだけど、常陸国府も武装していて、合戦になっちゃうんだ。
将門の兵のほうが少数だったんだけど、勝利して、常陸国府を占拠し、国司も捕まえちゃう。将門はそのままイケイケになって、上野国府も占拠して、「新皇」と称するんだ。「関東に新しい朝廷をつくったぞ!」という意味だね。
そして、常陸・上総・下総・上野・下野・安房・相模・伊豆の国司を勝手に任命しちゃう。
これができたってことは、平将門にしたがう豪族が関東にたくさんいたっていうことだな。
そういうことだね。
さて、少し前に「ウソついてんじゃねーよ」ってしかられた源経基は、この事件によって汚名返上&名誉回復。
平将門が実際に謀反を起こしちゃったからな。
むしろ、「あのときはウソつき認定してごめんね」って感じで、従五位下に叙せられる。
そして、平将門を討伐する軍の副将軍になる!
源氏の逆襲がはじまる!
しかし、関東についたときには、将門はすでに平貞盛・藤原秀郷の軍に討たれていて、「平将門の乱」は鎮圧されてた。
ひとあし遅かったか!!
ちなみに「比企氏」は、この藤原秀郷の子孫。
ご先祖様の時点で大活躍していたんだ!
さて、源経基は、気を取り直して、瀬戸内海で勃発した「藤原純友の乱」を平定しに向かう。
あくまでうわさだけど、「平将門」と「藤原純友」は、同時期に示し合わせて東国と西国で反乱を起こしたという話もある。
今度こそ源氏の祖である源経基が大活躍するときだな!
ところが、藤原純友が大宰府を襲撃した際、博多湾で小野好古に討伐されてしまって、「藤原純友の乱」は鎮圧されていた。
またしてもひとあし遅かったか!
まあ、そんなわけで記録上はちょっとパッとしなかった経基なんだけど、その息子の満仲は、たくさんの国の受領を歴任して出世していくんだ。いろんな国の荘園をまわるんだね。
国司をつとめた国のうち、摂津国の多田というところに土着して、武士団を形成していく。
満仲の息子のうち、長男「頼満」はそのまま摂津国の多田を相続し、「摂津源氏」といわれた。
次男の「頼親」は、大和国の国司になって、「大和源氏」の祖となる。
三男の「頼信」は、河内国石川郡に土着して、「河内源氏」を形成した。この源頼信は、戦に秀でていて、藤原道長に重用された人物。「道長四天王」の一人だった。
このうち関東に勢力を持ったのが頼信に始まる「河内源氏」なんだ。
ほほう。
あるとき、平将門のいとこの子どもである平忠常が、安房国府を襲撃して、反乱を起こすんだ。
最初に乱の平定にあたったのが平直方という人物。平高望の直系の子孫だ。
オレはこの「平直方」の子孫らしい。
けれど、なかなか騒動は収まらない。最終的には河内源氏の頼信が、息子の頼義とともに鎮圧に向かうんだけど、そうしたら平忠常はあっさり負けを認めちゃって、「平忠常の乱」は平定されてしまうんだ。
「平忠常」は一時期「源頼信」の家人だったことがあって、「いちど仕えた人がやって来る」という展開になった際、いさぎよく負けを認めたそうだ。
ほうほう。
そうしたら、平直方が、頼信の息子の頼義をいたく気に入っちゃって、「ぜひ娘と結婚してくれ」っていって、自分が持っていた鎌倉の大倉にあった屋敷などをあげちゃうんだね。
頼義もちょうど相模守という国司になって、鎌倉を拠点として相模国を治めるんだ。
鎌倉幕府の守り神である「鶴岡八幡宮」というのは、この頼義が、京の石清水八幡宮の神様を鎌倉でお祀りするために建造した神社なのだ。
大倉って、鎌倉幕府の将軍の家だ!
そして、鶴岡八幡宮は実朝が公暁に討たれた場所だ!
だから、「鎌倉幕府」の原型は、この頼義の時代に始まっているんだね。
そして、源頼義の息子が、あの有名な源義家。
「源義家」という人はそんなに有名な人なの?
「武士の中の武士」「トップオブザ武士」と思われていて、後世、徳川家康などもこの「源義家」の生き方を見本にしていたというくらいだ。
何をした人なの?
ものすごく大雑把にいうと、お父さんの頼義が陸奥守のときに、東北の安倍氏という豪族が南側に勢力を伸ばしてきたことを食い止めたのが「前九年の役」という戦い。これは朝廷もおおいに喜んだ。このとき息子の義家も参加していて、その功績で出羽守になっている。
その20年後に、義家は陸奥守になる。そのとき東北地方で勢力を持っていた清原氏の内紛に介入して、むしろ勢力を北に広げようとするんだ。この「後三年の役」というものに勝利するんだけど、朝廷は「勝手に戦ったんでしょ」って言い張って、恩賞を出さなかったんだ。
どいひー。
朝廷は、義家の力が巨大化していくことを恐れて、陸奥守を解任して、義家が荘園を持つことも禁じてしまう。
義家はとうぜんムカついたんだけど、働いてくれた武士たちに何かあげなくちゃと思って、自分の私財をなげうって、関東武士たちに恩賞を与えるんだ。
かっけー。
だから、朝廷の思惑とは逆に、義家の評判はうなぎのぼり。
関東の武士たちは、「源義家こそトップオブザ武士だ!」というかたちで、カリスマになっていくんだ。
なお、このとき「清原氏」の内紛のゴタゴタにおいて、最終的に義家と手を組んだのが「清原清衡」という人物で、その後お父さんの姓に戻して「藤原清衡」となのった。これが奥州藤原氏のはじまり。
中尊寺を建てた一族だな。
さて、この源義家の曾孫が「源義朝」だ。
頼朝や義経のお父さんだ!!
そうだね!
義朝も鎌倉に住んでいた。
だから、頼朝が挙兵したあとに、鎌倉を目指したのも、そこが父親やご先祖様のゆかりの地であるからなんだ。
そこにさえ行けば、神様も味方してくれるかもしれないし、父を慕っていた武将たちにも会えるかもしれない。そんな思いだったろうね。
なんとも熱いドラマだった。
話は終わらない。
なん・・・だと・・・。
さらに時代が経っても、この源義家の子孫に、教科書太字レベルの人物がいる。
だだだ誰だ・・・。
足利尊氏。
ちょ、まっ・・・
鎌倉幕府を滅ぼした男。
ということは、鎌倉幕府は義家の子孫がひらき、義家の子孫が終わらせたのか・・・。
そうだ。
平氏の話ももうちょっとしてほしい。
あつもりィ!
ちょっと話を戻すと、鎌倉の大倉に館をもらった「源頼義」やその息子「義家」のころには、「前九年の役」や「後三年の役」などを戦い抜いた結束もあって、関東では「源氏」が勢力を持つようになっていく。その間、関東にいた平氏は、源氏に勢力を抑えられ、源氏の配下に入った平氏もあった。
そんな中、藤原秀郷といっしょに「平将門の乱」を鎮圧した平貞盛の息子「平維衡」は、伊勢国を拠点にして「伊勢平氏」という一族を形成していくんだ。
伊勢エビの伊勢だな。
関東で源義家の勢力が拡大していくことに危機感をもった朝廷は、ちょっと源氏と距離を置くんだね。
白河天皇が堀河天皇に譲位して、白河法皇として「院政」をとるころには、朝廷と源氏はだいぶ疎遠になってしまっていた。
そんな中、平維衡の曾孫の「平正盛」は、伊賀にあった所領を白河法皇に寄進するなどして、朝廷との関係を深めていく。正盛は「北面武士(院御所の北側を警護する武士)」という院直属の軍に配置されるなど、武士としての栄光をつかんでいくんだ。
伊勢エビもあげたんだろうな。
そんなとき、源義家の息子の「源義親」は対馬守とになっているんだけど、関東は勝手が違うから、トラブルがたくさん起きる。その後、義親が隠岐や出雲でも暴れまわっているという訴えがあがる。
平正盛はそれを抑えるために因幡守になり、翌年、義親を討伐するんだ。
あの「関東のカリスマ」である源義家の息子が平氏に討たれたというニュースはけっこう衝撃的で、このあたりから「平氏の世の中」というムードになっていく。
その後、正盛の息子の「忠盛」は、鳥羽上皇に昇殿を許され、大切な笛までいただくという栄誉を授かった。
え・・・、その笛って・・・
わたしが譲り受けた小枝の笛(青葉の笛)だ。
この「忠盛」の息子が、平家全盛の世をつくった「平清盛」だね。
以上、見てきたように、「源氏」にもいろいろな流れがあるし、「平氏」にもいろいろな流れがある。
この、「伊勢平氏」の特に「正盛以降」の血脈を「平家」と呼ぶんだ。
じゃあ、「伊勢平氏」ではない「平氏」、たとえば、関東地方に残ったままの平氏は「平家」ではないの?
そう。
だから、熊谷直実なんかは、「平直方」の子孫といわれているから、家柄は「平氏」なんだけど、「伊勢平氏」とは関係ないから、「平家」ではない。
関東地方に土着した平氏の一族は、基本的に「平家」ではない。平家の人が国司として東国に赴任してきたとかはあるけどね。
平氏はぜんぶ平家かと思ってたけど、そうではないんだな。