八田知家 ―常陸国につくったお城 やがて北畠親房が住みました―

人物
八田知家 はったともいえ

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将です。

お父さんは、下野しもつけ国(いまの栃木県)宇都宮うつのみや氏の二代当主である宇都宮宗綱むねつな(八田宗綱)です。

お姉さんは源頼朝よりとも乳母めのとであった寒河尼さむかわのあまです。その息子が結城朝光ゆうきともみつです。

知家は、保元の乱で源義朝にしたがっており、義朝の息子である頼朝が挙兵した時も初期から参加しました。

平家討伐をめぐる上洛に際しては、源範頼軍に参加しています。ただ、在京中に右衛門尉うえもんのじょうに任官したことから、勝手な任官を嫌う源頼朝に嫌味を言われています。

とはいえ、頼朝の重臣であったことはかわらず、奥州合戦では東海道軍の大将軍を務めました。

頼朝の死後は、頼家の専制を封じるため、十三人合議制のメンバーになっています。

八田知家の鎌倉の屋敷には、しばしば京から使者が泊っており、都との関係も浅くなかったことが知られています。

八田知家はったともいえとごいっしょに、甥っ子の結城朝光ゆうきともみつもご覧ください。

寒河尼からしてみると、弟が八田知家で、息子が結城朝光です。

八田知家はったともいえは、もともと源頼朝よりとものお父さんの義朝よしともにしたがっていて、保元の乱でも義朝軍に参加している。

頼朝の挙兵後は、お姉さんである寒河尼さむかわのあまや、その夫の小山政光おやままさみつとの関係もあって、早い段階から頼朝にしたがっている。

頼朝が挙兵した1180年に下野しもつけ茂木もてぎ郡の地頭に任命されているから、頼朝挙兵の「初期メンバー」だと言えるね。

八田知家は、宇都宮氏とも関係が深い。

宇都宮って、あの有名な宇都宮?

少し前の時代に、藤原宗円そうえんという神官がいたんだ。この人は「藤原道兼みちかね曾孫ひまご」という説と、「藤原道長みちなが曾孫ひまご」という説がある。

この宗円は、前九年の役の際に、源頼義よりよし義家よしいえ親子に協力していたといわれる人物で、宇都宮座主(二荒山ふたあらやま神社の神官)になっている。「宇都宮氏」というのは、この宗円から始まっているんだね。宗円の甥っ子が宗綱という人なんだけど、やがて宗円の養子となって、ともに宇都宮に行っているらしい。

この宗綱の娘が寒河尼と八田知家。

宗円と宗綱が宇都宮に入る前から、常陸国の八田(いまの茨城県筑西市)に基盤を持っていたみたいだね。

宇都宮といえばギョーザでございますよね。

八田知家
八田知家

おいしかったなあ。みんみんのギョーザ。

宇味家うまいやもよかったよね。

野菜の味が濃いギョーザなのよ。

八田知家
八田知家

皮で言うなら、餃天堂ぎょうてんどうのもち米入りの皮ももちもちですばらしい。

さらにさらに、タレで言うなら正嗣まさし老舗しにせという点では香蘭こうらんの焼き餃子こそが・・・

比企尼
比企尼

そろそろ本編に戻れ。

・・・本編?

宇都宮うつのみや氏の話だった。

もともとは蝦夷えみしを討伐するために派遣された集団が、その戦いで命を落としたものを祀るために神社をつくったんだね。それが二荒山ふたあらやま神社。

宇都宮はその門前町として栄えた場所だった。「」は「」と同じ発音をすることから、「東」という意味が込められていて、「都」は「みやこ」であり、「宮」は「神社」だね。

なんで「」だと東なんだ?

古代からずっと、十二支で時刻や方角を示していたんだよ。

の刻」は「午前0時」のこと。「の方角」は「北」のこと。

うまの刻」は「午後0時」のこと。「うまの方角」は「南」のこと。

すると、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい」だから・・・

の刻」は「午前9時」のことで、「の方角」は「東」のことだな。

八田知家
八田知家

じいちゃんと父ちゃんは、八田(いまの茨城県)から鬼怒川きぬがわ沿いに宇都宮に行ったみたいだよ。

八田の南東のほうにいくと、源為義の息子である志田義広の所領(信太荘)があるんだけど、志田義広は頼朝の挙兵に関与せず、協力する姿勢を見せていなかった。

三浦義澄
三浦義澄

それであるとき、鹿島神宮のほうの所領を志田義広が横取りしたって話になったとき、頼朝さんが「そんなことしちゃダメだべ」って忠告したら、なんか急に大軍を率いて小山のほうに進軍してきた。

信太荘っていうのは、いまでいうとどのへんなの?

地図でいうと、霞ケ浦の下から左のあたり。

熊谷直実
熊谷直実

JRA(日本中央競馬会)の美浦トレーニングセンターがあるあたりだ。

熊谷直実
熊谷直実

これは、スタートの練習をするやつ。

熊谷直実
熊谷直実

これは、坂路調教のための坂道。

権田栗毛
権田栗毛

え? 参加したい!

熊谷直実
熊谷直実

はっはー!

権田栗毛が走ったら、いつも一着だぞ!!

権田栗毛
権田栗毛

さあ、大欅おおけやきのむこうから馬群が見えてきた!

第3コーナーをまわって、先頭はゴンタクリゲ、先頭はゴンタクリゲ!

そのままー! そのままー!

ゴンタクリゲ、一着でゴールイン!!

畠山重忠
畠山重忠

二着はハタケシゲタダ!

ハタケシゲタダ!

ちょっと、競馬場にいる人のマネはいいから!!

あと、重忠は、一の谷じゃないから馬に乗っていいから!

八田知家
八田知家

だいたい、美浦トレセンは競馬場じゃないからね。

志田義広の大軍を、小山朝政が中心となって撃退したんだけど、このとき、八田知家らは小山朝政側に協力している。朝政軍の勢力として、源範頼のりよりも加わっていたよ。

頼朝の弟だな。

八田知家は、平家討伐の軍としても、範頼のりよりとともに西海まで行っているね。

平家の退路を断つために、範頼のりより軍として九州に入っている。

八田知家
八田知家

その前の年には、京にいる間に「右衛門尉うえもんのじょう」に任官するんだぞ。

あれ、でも頼朝の許可なく任官されたらダメなんじゃなかったっけ?

なんか、義経よしつねさんも任官されてたから、いいのかなあと思って引き受けたら、案の定しかられました。

梶原景時
梶原景時

ああ~。旅の途中の京で任官されたことに対して、頼朝さんの手紙には「どんくさい馬が道草を食っているようなもんだ。関東に帰ってくんな」って嫌味を書かれてたな。

結城朝光
結城朝光

おじさん、気の毒に・・・。

梶原景時
梶原景時

でも、わしの弟(友景)なんて、「シワガレ声」とか「髪が少ない」とかムチャクチャ書かれてたよ。

和田義盛
和田義盛

後藤基清は「目がねずみみたい」だったし、豊田義幹は「色白」だったし、平山季重なんて、「ふわふわした顔」だったからな。

梶原景時
梶原景時

なんか、小学生レベルの悪口のオンパレードだったよな。

八田知家
八田知家

だからこそ、謝りやすかったっていうのもありました。

和田義盛
和田義盛

逆に、その文書に義経さんのことが書かれてないのが不気味だったよな。

畠山重忠
畠山重忠

ああ~。たしかに、「身軽なキツネ野郎!」とか書いてあれば、「本当に怒ってるわけじゃなさそうだぞ」って思えるけど、書かれてないほうが怖いよな。

実際、頼朝の意図はそこにあったと言われていて、任官を受けた御家人を罵倒しているんだけど、どこかちょっと冗談めかした書き方をしている。ところが義経に関しては何も言っていない。

こうなると、他の御家人たちは、「なんだ義経だけしかられないの?」という不満が募るし、義経本人からしてみると、他の御家人たちと扱いが違うことに、不気味さを抱く。ある意味で、義経はどんどん孤立させられていくんだね。

和田義盛
和田義盛

だからこそ手柄をたてようとがんばったのに、景時が「義経さんが勝手なことばかりする」って手紙を頼朝さんに送っちゃうから、ますます対立が深まっちゃうんだよなあ。

梶原景時
梶原景時

うん、まあ、悪いことしたとちょっと思ってるよ。

知家はわりとあっさり許されていたようで、翌々年、鶴岡八幡宮の放生会ほうじょうえには、源範頼のりよりや小山朝政ともまさらとともに参加しているね。

三浦義澄
三浦義澄

ああ、わしも参加したやつだ。

その後の奥州合戦では、千葉胤常たねつねとともに常磐道方面から進軍する軍勢の大将軍になっている。

よかったね。

このころ、常陸ひたち国の筑波山のあたりに多気義幹たけよしもとという人がいて、八田知家とは対立関係にあった。

そんな時、「富士の巻狩り」で「曾我兄弟の敵討ち」という大事件が起きる。

「曾我兄弟の敵討ち」についてはこちら。

ここで八田知家は、多気側に、「八田が多気を討とうとしている」といううわさ話を流すんだ。

「なんだと!」と思って、多気義幹は多気城たきじょう多気山城たきさんじょう)に兵を結集させる。

そこにまた使者が来て、「富士の巻狩りで敵討ちの事件があって、頼朝さんがピンチだから来てほしい」と伝えるんだ。

多気義幹は、「なんだかだまされてるっぽいから行かないぞ!」といって、城の守りを固めたままだったんだ。

北条時政
北条時政

結果的に、多気義幹は、「頼朝さんのピンチに来なかったやつ」というレッテルを貼られて、しかも、「そんなときに城に兵を集めて何を考えてたんだろう・・・まさか・・・謀反?」という疑念の対象になってしまう。

それで多気義幹は領地を没収されてしまう。

謀略の罠にはめたんだな!

北条時政
北条時政

わしが考えた。

八田知家
八田知家

なんだか気が付いたら多気氏が失脚していた。

この「曾我兄弟の敵討ち」の事件については、不可解なことも多くて、この機に乗じて多くの人が失脚している。

範頼のりよりも、「頼朝よりともが討たれたらしい」という報について、「(あとには)自分が控えている(から大丈夫)」というようなことを政子に言ったということで、謀反の疑いをかけられているんだけど、本当にそんなことを言ったのかどうか定かではない。

政子の虚言という説もある。

結城朝光
結城朝光

ちなみにそのとき、範頼さんが頼朝さんに出した起請文きしょうもん(ここでは頼朝に忠誠を誓うもの)に返事がなかったから、困惑した範頼さんは、使いの者をこっそり頼朝さんの寝所まで行かせちゃう。

「誰かいるんじゃない?」って頼朝さんが言うから、オレが床下を調べたら、範頼さんの使いの者が出てきた。

八田知家
八田知家

範頼さんは、「起請文のお返事がないから、どぎまぎして使いの者を送っちゃった」って言うんだけど、まあ、寝所に潜んでいたら、「暗殺しに来た」って思うよね。

結局、範頼さんは、伊豆に流罪になっちゃう。

このあとの記録が少ないから、普通に考えて範頼は処刑されたと考えられているんだけど、範頼の子どもについては、頼朝の乳母である比企尼ひきのあまが助命を嘆願して、武蔵むさし横見よこみ吉見よしみ(いまの埼玉県比企郡吉見町)に引き取って暮らしたとされている。

一説では、範頼自身も吉見に隠れ住んだとされている。

比企尼
比企尼

頼朝も比企尼のお願いだけは聞く説。

北条時政
北条時政

さて、多気氏が所領を没収されたあと、そこを見張るようになったのが八田知家で、知家は常陸国ぜんたいの守護になっている。

また、頼朝の死後、二代目の頼家の専制を防ぐため、十三人の合議制のメンバーになっている。

北条時政
北条時政

あんときは、跡継ぎの頼家よりいえがあんまり勝手だから、わしは義朝よしともさんの七男である阿野全成あのぜんじょうさん(頼朝・範頼の弟で、義経の兄)を担ぎ上げて、頼家を討っちゃおうと思ってたんだよね。

でも、頼家は危険を察知して、武田信光のぶみつに命じて、逆に阿野全成ぜんじょうを捕まえて常陸ひたちに流罪とする。

全成は、頼家からするとおじさんだけどね。

そして、頼家の指示で、常陸国で全成を討ったのが八田知家。

八田知家
八田知家

いやな役だった。

それを聞くと、十三人の合議制のメンバーも、「一枚岩」って感じじゃなくて、いろんな立場があったんだな。

そうだね。

八田知家は、常陸国の小田というところに「小田城」という本拠地をつくるんだ。いまの茨城県つくば市。

それが小田氏のはじまりなので、八田知家は小田氏の祖と言われている。

八田知家
八田知家

小田城は、そのずっと後、南北朝時代になると、南朝側の勢力が東国を見るための拠点になったんだよ。

北畠親房きたばたけちかふさがここに住んで、ここで『神皇正統記じんのうしょうとうき』を書いたんだ。

八田知家ってあんまり有名じゃないなと思っていたら、最後の最後に教科書太字レベルのキーワードがぶっこまれた!

八田知家
八田知家

「有名じゃないな」がちょっと引っかかるけど、たしかに小田城はわしが建てたときじゃなくて、後世に有名になった。