八田知家とごいっしょに、甥っ子の結城朝光もご覧ください。
寒河尼からしてみると、弟が八田知家で、息子が結城朝光です。
八田知家は、もともと源頼朝のお父さんの義朝にしたがっていて、保元の乱でも義朝軍に参加している。
頼朝の挙兵後は、お姉さんである寒河尼や、その夫の小山政光との関係もあって、早い段階から頼朝にしたがっている。
頼朝が挙兵した1180年に下野国茂木郡の地頭に任命されているから、頼朝挙兵の「初期メンバー」だと言えるね。
八田知家は、宇都宮氏とも関係が深い。
宇都宮って、あの有名な宇都宮?
少し前の時代に、藤原宗円という神官がいたんだ。この人は「藤原道兼の曾孫」という説と、「藤原道長の曾孫」という説がある。
この宗円は、前九年の役の際に、源頼義・義家親子に協力していたといわれる人物で、宇都宮座主(二荒山神社の神官)になっている。「宇都宮氏」というのは、この宗円から始まっているんだね。宗円の甥っ子が宗綱という人なんだけど、やがて宗円の養子となって、ともに宇都宮に行っているらしい。
この宗綱の娘が寒河尼と八田知家。
宗円と宗綱が宇都宮に入る前から、常陸国の八田(いまの茨城県筑西市)に基盤を持っていたみたいだね。
宇都宮といえばギョーザでございますよね。
おいしかったなあ。みんみんのギョーザ。
宇味家もよかったよね。
野菜の味が濃いギョーザなのよ。
皮で言うなら、餃天堂のもち米入りの皮ももちもちですばらしい。
さらにさらに、タレで言うなら正嗣、老舗という点では香蘭の焼き餃子こそが・・・
そろそろ本編に戻れ。
・・・本編?
宇都宮氏の話だった。
もともとは蝦夷を討伐するために派遣された集団が、その戦いで命を落としたものを祀るために神社をつくったんだね。それが二荒山神社。
宇都宮はその門前町として栄えた場所だった。「宇」は「卯」と同じ発音をすることから、「東」という意味が込められていて、「都」は「みやこ」であり、「宮」は「神社」だね。
なんで「卯」だと東なんだ?
古代からずっと、十二支で時刻や方角を示していたんだよ。
「子の刻」は「午前0時」のこと。「子の方角」は「北」のこと。
「午の刻」は「午後0時」のこと。「午の方角」は「南」のこと。
すると、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」だから・・・
「卯の刻」は「午前9時」のことで、「卯の方角」は「東」のことだな。
じいちゃんと父ちゃんは、八田(いまの茨城県)から鬼怒川沿いに宇都宮に行ったみたいだよ。
八田の南東のほうにいくと、源為義の息子である志田義広の所領(信太荘)があるんだけど、志田義広は頼朝の挙兵に関与せず、協力する姿勢を見せていなかった。
それであるとき、鹿島神宮のほうの所領を志田義広が横取りしたって話になったとき、頼朝さんが「そんなことしちゃダメだべ」って忠告したら、なんか急に大軍を率いて小山のほうに進軍してきた。
信太荘っていうのは、いまでいうとどのへんなの?
地図でいうと、霞ケ浦の下から左のあたり。
JRA(日本中央競馬会)の美浦トレーニングセンターがあるあたりだ。
これは、スタートの練習をするやつ。
これは、坂路調教のための坂道。
え? 参加したい!
はっはー!
権田栗毛が走ったら、いつも一着だぞ!!
さあ、大欅のむこうから馬群が見えてきた!
第3コーナーをまわって、先頭はゴンタクリゲ、先頭はゴンタクリゲ!
そのままー! そのままー!
ゴンタクリゲ、一着でゴールイン!!
二着はハタケシゲタダ!
ハタケシゲタダ!
ちょっと、競馬場にいる人のマネはいいから!!
あと、重忠は、一の谷じゃないから馬に乗っていいから!
だいたい、美浦トレセンは競馬場じゃないからね。
志田義広の大軍を、小山朝政が中心となって撃退したんだけど、このとき、八田知家らは小山朝政側に協力している。朝政軍の勢力として、源範頼も加わっていたよ。
頼朝の弟だな。
八田知家は、平家討伐の軍としても、範頼とともに西海まで行っているね。
平家の退路を断つために、範頼軍として九州に入っている。
その前の年には、京にいる間に「右衛門尉」に任官するんだぞ。
あれ、でも頼朝の許可なく任官されたらダメなんじゃなかったっけ?
なんか、義経さんも任官されてたから、いいのかなあと思って引き受けたら、案の定しかられました。
ああ~。旅の途中の京で任官されたことに対して、頼朝さんの手紙には「どんくさい馬が道草を食っているようなもんだ。関東に帰ってくんな」って嫌味を書かれてたな。
おじさん、気の毒に・・・。
でも、わしの弟(友景)なんて、「シワガレ声」とか「髪が少ない」とかムチャクチャ書かれてたよ。
後藤基清は「目がねずみみたい」だったし、豊田義幹は「色白」だったし、平山季重なんて、「ふわふわした顔」だったからな。
なんか、小学生レベルの悪口のオンパレードだったよな。
だからこそ、謝りやすかったっていうのもありました。
逆に、その文書に義経さんのことが書かれてないのが不気味だったよな。
ああ~。たしかに、「身軽なキツネ野郎!」とか書いてあれば、「本当に怒ってるわけじゃなさそうだぞ」って思えるけど、書かれてないほうが怖いよな。
実際、頼朝の意図はそこにあったと言われていて、任官を受けた御家人を罵倒しているんだけど、どこかちょっと冗談めかした書き方をしている。ところが義経に関しては何も言っていない。
こうなると、他の御家人たちは、「なんだ義経だけしかられないの?」という不満が募るし、義経本人からしてみると、他の御家人たちと扱いが違うことに、不気味さを抱く。ある意味で、義経はどんどん孤立させられていくんだね。
だからこそ手柄をたてようとがんばったのに、景時が「義経さんが勝手なことばかりする」って手紙を頼朝さんに送っちゃうから、ますます対立が深まっちゃうんだよなあ。
うん、まあ、悪いことしたとちょっと思ってるよ。
知家はわりとあっさり許されていたようで、翌々年、鶴岡八幡宮の放生会には、源範頼や小山朝政らとともに参加しているね。
ああ、わしも参加したやつだ。
その後の奥州合戦では、千葉胤常とともに常磐道方面から進軍する軍勢の大将軍になっている。
よかったね。
このころ、常陸国の筑波山のあたりに多気義幹という人がいて、八田知家とは対立関係にあった。
そんな時、「富士の巻狩り」で「曾我兄弟の敵討ち」という大事件が起きる。
「曾我兄弟の敵討ち」についてはこちら。
ここで八田知家は、多気側に、「八田が多気を討とうとしている」といううわさ話を流すんだ。
「なんだと!」と思って、多気義幹は多気城(多気山城)に兵を結集させる。
そこにまた使者が来て、「富士の巻狩りで敵討ちの事件があって、頼朝さんがピンチだから来てほしい」と伝えるんだ。
多気義幹は、「なんだかだまされてるっぽいから行かないぞ!」といって、城の守りを固めたままだったんだ。
結果的に、多気義幹は、「頼朝さんのピンチに来なかったやつ」というレッテルを貼られて、しかも、「そんなときに城に兵を集めて何を考えてたんだろう・・・まさか・・・謀反?」という疑念の対象になってしまう。
それで多気義幹は領地を没収されてしまう。
謀略の罠にはめたんだな!
わしが考えた。
なんだか気が付いたら多気氏が失脚していた。
この「曾我兄弟の敵討ち」の事件については、不可解なことも多くて、この機に乗じて多くの人が失脚している。
源範頼も、「頼朝が討たれたらしい」という報について、「(あとには)自分が控えている(から大丈夫)」というようなことを政子に言ったということで、謀反の疑いをかけられているんだけど、本当にそんなことを言ったのかどうか定かではない。
政子の虚言という説もある。
ちなみにそのとき、範頼さんが頼朝さんに出した起請文(ここでは頼朝に忠誠を誓うもの)に返事がなかったから、困惑した範頼さんは、使いの者をこっそり頼朝さんの寝所まで行かせちゃう。
「誰かいるんじゃない?」って頼朝さんが言うから、オレが床下を調べたら、範頼さんの使いの者が出てきた。
範頼さんは、「起請文のお返事がないから、どぎまぎして使いの者を送っちゃった」って言うんだけど、まあ、寝所に潜んでいたら、「暗殺しに来た」って思うよね。
結局、範頼さんは、伊豆に流罪になっちゃう。
このあとの記録が少ないから、普通に考えて範頼は処刑されたと考えられているんだけど、範頼の子どもについては、頼朝の乳母である比企尼が助命を嘆願して、武蔵国横見郡吉見(いまの埼玉県比企郡吉見町)に引き取って暮らしたとされている。
一説では、範頼自身も吉見に隠れ住んだとされている。
頼朝も比企尼のお願いだけは聞く説。
さて、多気氏が所領を没収されたあと、そこを見張るようになったのが八田知家で、知家は常陸国ぜんたいの守護になっている。
また、頼朝の死後、二代目の頼家の専制を防ぐため、十三人の合議制のメンバーになっている。
あんときは、跡継ぎの頼家があんまり勝手だから、わしは義朝さんの七男である阿野全成さん(頼朝・範頼の弟で、義経の兄)を担ぎ上げて、頼家を討っちゃおうと思ってたんだよね。
でも、頼家は危険を察知して、武田信光に命じて、逆に阿野全成を捕まえて常陸に流罪とする。
全成は、頼家からするとおじさんだけどね。
そして、頼家の指示で、常陸国で全成を討ったのが八田知家。
いやな役だった。
それを聞くと、十三人の合議制のメンバーも、「一枚岩」って感じじゃなくて、いろんな立場があったんだな。
そうだね。
八田知家は、常陸国の小田というところに「小田城」という本拠地をつくるんだ。いまの茨城県つくば市。
それが小田氏のはじまりなので、八田知家は小田氏の祖と言われている。
小田城は、そのずっと後、南北朝時代になると、南朝側の勢力が東国を見るための拠点になったんだよ。
北畠親房がここに住んで、ここで『神皇正統記』を書いたんだ。
八田知家ってあんまり有名じゃないなと思っていたら、最後の最後に教科書太字レベルのキーワードがぶっこまれた!
「有名じゃないな」がちょっと引っかかるけど、たしかに小田城はわしが建てたときじゃなくて、後世に有名になった。