三浦義澄 ―頼朝の将軍就任の任命書 八幡宮で受けとりました―

人物
三浦義澄 みうらよしずみ

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将です。

お父さんは三浦義明よしあきです。息子は三浦義村よしむらです。

和田義盛よしもりや和田(杉本)義茂よしもちおいっ子になります。

義朝よしとも義平よしひら側の軍で平治の乱に参加しますが、敗退し、平家側に取り込まれるかたちで京ではたらいていました。その後、兄の三浦(杉本)義宗が亡くなったことで、三浦家の家督を継ぐことになります。

1180年の源頼朝挙兵時には、はやい段階から頼朝にしたがっていました。それ以前に京ではたらいていた義澄が、都の様子を頼朝に伝え、挙兵を勧めたという説もあります。

頼朝挙兵後の第二戦目にあたる「石橋山の戦い」に向かいますが、到着前に頼朝の敗走を知ります。そこで三浦に引き返す際に、当時は平氏側の勢力であった畠山軍と由比ガ浜で衝突します。双方の行き違いから合戦になり、結果、三浦家の本拠地である衣笠城に攻め込まれます。父義明の命で安房へと逃れ、合流した頼朝とともに陸路で鎌倉へと入りました。

その後、平家討伐の戦いにおいては、源範頼のりよりにしたがい、壇の浦の戦いなどで活躍しました。平家滅亡後、奥州合戦にも参加し、武功をあげています。

1192年、源頼朝が征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなった時には、除書じしょ(任命書)を鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうで受けとる大役を果たしました。このことからも、頼朝の厚い信任を得ていたことがわかります。

頼朝の死後、頼家よりいえの独裁をおさえる組織である「十三人の合議制」のメンバーに選ばれています。

三浦義澄よしずみの妻は、伊東祐親すけちかの娘なんだよね。

祐親すけちかさんは、娘である八重姫やえひめが頼朝の子どもを産んだことに対して、とても怒って、頼朝を討とうとした人だな。

伊東祐親
伊東祐親

そのとおりだ。

そのときは、祐親の息子の祐清すけきよが、「頼朝さん、狙われてるよ」って教えてあげたんだね。

北条時政
北条時政

そんで、頼朝が逃げてきたのがわしの家。

ちなみに、わしの最初の妻も伊東祐親の娘。

八重姫にはお姉さんが二人いて、そのうちの一人が北条時政の最初の妻で、もう一人が、三浦義澄の妻なんだね。

三浦義澄
三浦義澄

だから、祐親さんは、わしの義理の父親だ。

伊東祐親
伊東祐親

頼朝が挙兵したときの第一戦目は、伊豆の目代もくだいである山木兼隆やまきかねたかを討って、頼朝が勝利した。

第二戦目の「石橋山の戦い」では、わしと大庭景親おおばかげちかが協力して、逆に頼朝軍を撃破した。

三浦義澄
三浦義澄

われら三浦一族が間に合わなかった合戦だ。

和田義盛
和田義盛

川が増水していて、渡れなかったんだよな。

和田義茂
和田義茂

自分はそもそも出発が遅かった。

畠山重忠
畠山重忠

わしはそのとき平家側にいたから、三浦一族と由比ガ浜で会っちゃったときは、お互い「うわあ」って思ったよね。

和田義盛
和田義盛

「うわあ」って思いながらも、お互い親戚関係も多くて、和睦が成り立ちそうだったところに、義茂が遅れてきて、切りかかっちゃうんだよな。

それで結局は合戦になっちゃう。

和田義茂
和田義茂

その節は本当にすまん。

畠山重忠
畠山重忠

そのままわしらは三浦氏の本拠地である衣笠城を攻めた。

老齢であった三浦義明は、子どもや孫たちに、海をわたって安房国方面に逃げるように言って、自分は城に残るんだね。

三浦義明
三浦義明

わし、かっけえ。

三浦義澄
三浦義澄

おやじ、かっこいいぜ。

和田義盛
和田義盛

おじいちゃん・・・・・・

和田義茂
和田義茂

おじいちゃん・・・・・・

三浦義村
三浦義村

おじいちゃん・・・・・・

伊東祐親や大庭景親らの軍は、敗走した頼朝を探すんだけど、見つけることができなかった。

梶原景時
梶原景時

そのときは平家側にいたわしが洞穴の中で見つけたんだけど、頼朝が大物になりそうな予感がしたから、見つけなかったことにして逃がしちゃった。

だから、頼朝さんは、あとでわしが仲間になったときに、「あんときは逃がしてくれてありがとう」っていう感じで、わしを重用してくれたのだ。

伊東祐親は、やっぱり頼朝が憎くて敵対したのかな?

伊東祐親
伊東祐親

ここらへんはそういう私的な理由ではなくて、そのとき平氏側から役職をもらってはたらいていたから、流れでそうなった。

わしの行動原理はサラリーマンが会社に尽くして、家庭と一族を守るというものに近い。

石橋山の戦いに負けた頼朝だったけれども、三浦義澄たちと合流し、その後、一度は敵対していた畠山重忠たちとも合流し、鎌倉に入るころにはものすごい勢力になっていた。

時を同じくして、河内源氏の流れをくむ武田信義のぶよしは、甲斐かい国で平家打倒の挙兵をして、駿河するが国の目代もくだいを討った。

平清盛から東国への出撃命令を受けていた平家軍は、ずいぶん時間がかかりながらも軍勢を用意して、清盛の孫である維盛これもりが率いる軍が東に向かった。

そして、駿河国富士川の西側に平家軍、東側に武田軍という格好になる。頼朝も鎌倉を出発していて、武田軍のバックに頼朝軍が備えることになる。

それはさぞ血みどろの合戦が繰り広げられたであろう。

それが、急ごしらえの軍で、兵糧ひょうろうもほとんどなかった平家軍は、そもそも結束していなかったんだね。

武田軍だけでもかなり強いのに、後ろには関東を統一した頼朝軍が控えている。

武田軍が富士川の浅瀬を渡ろうと、馬で進むと、たくさんの水鳥がバサバサーッと飛び立った。それを武田軍の進撃だと勘違いした維盛これもり軍は、あわてふためいて撤退してしまった。

遠江とおとうみ国まで退却したときにはもう平家軍は散り散りになっていて、維盛が京に戻った時には10騎くらいになっていたらしい。

なんという不名誉。

まあ、ちょっと話も盛られているだろうけど、「結束の強い源氏」に対して、「統率のとれていない平家」というのは事実だった。

三浦義澄
三浦義澄

このとき頼朝さんは、「このまま京までいくぞオララー!」って感じだったんだけど、「一回鎌倉に戻ったほうがいいですよ」って止めたのがオレだ。

なんで止めたの?

三浦義澄
三浦義澄

最大の理由はまだ関東をまとめきれていないからだ。

平家側に大庭景親や伊東祐親がいたことからも、関東の武将でもまだ「反頼朝」がいたからね。

頼朝が大軍を率いて上洛しているあいだに、鎌倉を攻めてくる勢力があるかもしれない。そのへんをまずはしっかりやろうというのが、三浦氏や千葉氏の主張だった。

三浦義澄
三浦義澄

それに、「富士川の戦い」で最前線で戦ったのは武田軍だったでしょ。

武田の本拠地は甲斐国(いまの山梨県)だけど、この合戦を機に駿河国(いまの静岡県)を制圧したことになる。

この時点では武田は頼朝さんの「同盟軍」であって、傘下ではないから、よくよく話し合わずに頼朝さんがそこを通って京に進軍したら、武田にとってはあんまりいい気分じゃないよね。

いろいろな人間関係があるんだな。

三浦義澄
三浦義澄

この富士川の戦いの人間模様はドラマチックだぞ。

頼朝さんの弟の義経さんが、「兄ちゃんを手助けするんだ」といって、奥州から駆けつけて、対面を果たすんだ。会えたのは合戦のあとだったけど、頼朝さんも大喜びだった。

伊東祐親
伊東祐親

そして、わしはというと、この合戦で捕らえられちゃった。

三浦義澄
三浦義澄

そこで祐親すけちかさんを預かったのがオレだ。

妻の父が祐親さんだからな。

「石橋山の戦い」でタッグを組んでいた大庭景親は処刑されてしまった。

伊東祐親
伊東祐親

わしも、もはやここまでだな。

三浦義澄
三浦義澄

むむう。

祐親さんは義理の親父だから、なんとか命だけは助けられないものか・・・

そうだ。頼朝さんの妻の政子さんのご懐妊のニュースが飛び込んできたから、「まあまあ、おめでたいときに処刑をしなくても・・・」というセンで交渉してみよう。

伊東祐親は、頼朝と八重姫を別れされ、二人の子どもを殺すよう指示した人物だから、頼朝が祐親を許すはずもなかったんだけど、意外にも義澄の交渉は成功してしまう。

頼朝、寛大だな。

三浦義澄が言ったからだろうね。そのくらい三浦義澄は信任を得ていた。

三浦義澄
三浦義澄

けれども、祐親さんは、「以前の行いを恥じる」と言って、自害してしまった。

「以前の行い」ってなんだ?

おそらく、頼朝と八重姫の仲を裂いて、二人の子どもを殺す指示をしたことだろうね。

当時の状況を考えると、一族を守るために平家にたてつくわけにはいかないから、祐親の指示は無理もないことなんだけど、そののち頼朝は強大な勢力になるから、結果論としては、祐親には先見の明がなかったことになる。

こんなことだったら、頼朝と八重姫をそのまま結婚させておけば、伊東家は頼朝の重臣としての最大勢力になっていたかもしれない。

祐親は選択を誤ったのだな。

まあ結果論だけどね。

三浦義澄はというと、その後も頼朝の重臣として活躍し、「一の谷の戦い」「壇の浦の戦い」「奥州合戦」などに参加して活躍する。

三浦義澄
三浦義澄

平家討伐後に、頼朝さんが右近衛大将うこのえだいしょうに任ぜられたときは、その拝賀の儀式にお仕えする7人のうちに選ばれた。たいへんな名誉だ。

さらに、頼朝の躍進に貢献した御家人ベスト10みたいなやつにランクイン!

すげえ!

ところが、その褒章の位置づけだった官職を息子の三浦義村よしむらに譲っちゃう!

三浦義村
三浦義村

なんか、「義村がもらっとけよ」って譲ってくれた。

オレはありがたく頂戴して、右兵衛尉うひょうえのじょうに任ぜられた。

兵衛府ひょうえふはかつて頼朝さんもいらしたところだ。縁起がいいぜ。

義理のお父さんを助けようとしたり、官職を息子に譲ったり、義澄は家族思いなんだな。

天皇や皇室関係者の護衛や警護のために、兵衛府・近衛府・衛門府という組織があったんだね。それぞれに「右」と「左」があるから、これらを総称して「六衛府」という。

それぞれにかみすけじょうさかんというランクがある。

ちなみに平清盛は12歳くらいで左兵衛佐さひょうえのすけになっている。

源頼朝は、平治の乱のときに13歳で右兵衛権佐うひょうえごんのすけになるんだけど、お父さんの義朝が清盛側に敗北したことで解任されて、伊豆に流されちゃった。

時々出てくる「ごん」っていうのはなんだ?

官職は人数が決められているんだけど、それを超えて配置することがあるんだ。

たとえば「4人」と決められている官職に5人目が採用されると、その人が「ごん官」の扱い。

ただ、南北朝時代の大納言や中納言などは、「正式採用」がそもそもできていなくて、全員「権官」だったみたい。

ふむふむ。

頼朝で言えば、奥州合戦のあと、権大納言ごんのだいなごんになり、そのあとすぐに右近衛大将うこのえだいしょうになっている。その拝賀の儀式で側近7名に選出されているのが義澄ということだね。

その2年後、頼朝は征夷大将軍せいいたいしょうぐんになる。これをはじまりとして、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府のトップは「征夷大将軍」だということになっていった。

この「頼朝を征夷大将軍にするよ」という除書じしょ(任命書)が鎌倉に届いたとき、それを鶴岡八幡宮で受け取ったのが三浦義澄だ。

三浦義澄
三浦義澄

ものすごく緊張した。

父ちゃん(義明)の功績も大きかったから、わしが選ばれたのだ。

『吾妻鏡』には、「義澄除書を捧持し、膝行してこれを進す。千万人の中に義澄この役に応ず。面目絶妙なり。」と書かれている。

三浦義村
三浦義村

「面目絶妙」・・・・・・。おやじ、超かっこいいぜ!

このように、頼朝が最も信頼した御家人の一人であった義澄は、頼朝の死後も鎌倉幕府で重要な役割を果たしていく。

頼家の専制をおさえる「十三人の合議制」のメンバーにもなった。

重要人物で固めたけど、わりとすぐに解散しちゃったというやつだな。

梶原景時
梶原景時

いきなりわしが追放されちゃったからな。

くわしくはこちら。

三浦義澄は、梶原景時が駿河するが国で討たれた3日後に亡くなっている。

いきなり11人の合議制になっちゃったんだな。

和田義盛
和田義盛

わしは、父である杉本義宗と、おじさんである三浦義澄を弔うために、薬王寺という寺をつくったんだ。

いまは寺はなくなってしまったけど、義澄おじさんのお墓は残っている。