中原親能 ―幼いころの友の挙兵を 手伝うために鎌倉へ―

人物
中原親能 なかはらのちかよし

平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族・御家人です。

明法博士みょうぼうはかせ(法律の学者)であった中原広季ひろすえの息子(または養子)です。藤原光能みつよしの子という説もあります。

幼い時に相模さがみ国(いまの神奈川県)で養育されたため、伊豆の流人であった源頼朝とも交流があったとされます。

その後、京で下級官人となりますが、頼朝の挙兵後、鎌倉に下って頼朝に仕えます。公文所ではたらくなど、文官として活躍しました。平家追討や奥州合戦にも参加し、武将としても活躍しますが、幕府の仕事しては朝廷との交渉にあたることが多く、しばしば鎌倉と京を行き来しました。

頼朝の死後、頼家の独裁をおさえる機関である「十三人の合議制」のメンバーになっています。

政所まんどころ初代別当である大江広元は、中原親能ちかよしの弟(または義弟)です。

中原親能については、弟の大江広元とセットでおさえてほしい。

大江広元の紹介はこちら。

明法博士みょうぼうはかせってなんだ?

平安時代には、孔子を祖とする「儒教じゅがく」を研究する機関があって、その科目を「明経道みょうぎょうどう」というんだけど、それを勉強するためには「漢文」がわからないといけないんだね。

そこで設置されたのが、儒学や法律系の研究をする「律文博士りつぶんはかせ」と、歴史や文学系の研究をする「文章博士もんじょうはかせ」とう役職。

この「律文博士」がのちに「明法博士」と改称されたんだ。

いまでいう「法学部の教授」が「明法博士」で、「文学部の教授」が「文章博士」。

ふむふむ。

「明法博士」も「文章博士」も、限られた名門しかその役職につけなかった。

「明法博士」は坂上さかのうえ家か中原家が世襲せしゅうした。

坂上さかのうえって聞いたことあるな。

中原親能
中原親能

平安時代初期の征夷大将軍である坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろが有名だよね。

田村麻呂には子孫がたくさんいて、この明法博士の坂上家もその系統の一つ。

坂上家とともに明法博士として活躍したのがわが中原家。

「文章博士」は、菅原道真すがわらのみちざねで有名な菅原家がしばらく支えるんだけど、道真が失脚してからは、大江家がその職に就くようになる。

ということは、「中原家」と「大江家」は、いまふうに言うなら、「国立大学の隣接学部の教授を代々継いでいるような間柄」なのか。

そういう関係だね。

だから、大江広元なんかは、「大江家の血脈で中原家に育てられた」という説と、逆に「中原家の血脈で、のちに大江家に入った」という説があるんだけど、「中原家」と「大江家」が「隣接学部の教授職」の間柄だから、記録がややこしくなるのも仕方がない。

源頼家
源頼家

まあ、いずれにしても、「十三人の合議制」に、「中原家の人物」と「大江家の人物」が両方いるというのがすごいよね。

北条時政
北条時政

それな。あいつら頭いいから。

北条義時
北条義時

法律や歴史や文書作成の専門家だからな。

梶原景時
梶原景時

どちらも儒学に精通しているから、「孔子はこんなことを言っていた」とか、なんか人の心を打つコメントとかもうまいんだこれが。

三浦義澄
三浦義澄

朝廷との交渉とか、おれたち関東武士には無理だもんな。

京のことばがわかんないし、そもそも受付の場所とかもわかんない。

中原親能
中原親能

なんだか誇らしい。

さて、この中原親能という人は、権中納言ごんのちゅうなごん「源雅頼まさより」の家人としてはたらいていて、親能の妻は、雅頼の息子「兼忠かねただ」の乳母めのとであったという。

頼朝が関東で挙兵した数ヵ月後、源雅頼の家に平氏がやってくる。中原親能が幼少期に相模に住んでいて、その時頼朝と仲が良かったということを聞きつけて、尋問に来るんだね。

あやうし親能ちかよし

ところが、その前日までいたはずの親能ちかよしは消えてしまっている。

いったいどこへ・・・?

中原親能
中原親能

こっそり鎌倉へ・・・

数年後、源雅頼まさよりの家に飛脚ひきゃくがやってくる。

届けられたお便りには、こんなふうに書いてあった。

中原親能
中原親能

親能です。 お元気ですか?

いまは頼朝さんの側近やってます!

近々、頼朝さんの代理で、京に行きます。

都で手に負えなくなった木曾義仲をおさえるために、源範頼のりより義経よしつね軍が派遣されたときには、親能は義経とともに上京するんだね。

そしてそのまま、以前仕えていた源雅頼まさよりのおうちに泊まって、平家討伐の作戦を立てた。

こうして、朝廷側との交渉には親能が活躍したんだね。

そのため、京都守護という役目になっている。

この話の展開でわかるのは、源雅頼まさよりがいい人ということだな。

中原親能
中原親能

本当にいい人だった。

雅頼さんが間に入ってくれたから、右大臣九条兼実くじょうかねざねに頼朝さんの意志をあれこれ伝えることができたのだ。

大江広元
大江広元

わしは兄ちゃんの縁もあって、頼朝さんのところに行くようになった。

中原親能
中原親能

法律はわしが詳しいから、歴史とか文章の書き方とかを広元ひろもとにまかせたい。

大江広元
大江広元

漢文になっている事柄なら、だいたい頭に入っている。

和田義盛
和田義盛

すげえ。

鎌倉に幕府を設置するにあたり、頼朝は公文書の管理のために「公文所くもんじょ」という機関を置くんだ。

大江広元おおえのひろもとを別当にして、中原親能ちかよし、二階堂行政ゆきまさ、足立遠元とおもとたちが寄人よりうどとして公文所を運営した。

「十三人の合議制」の人ばっかりだな。

寄人よりうど」は他にもいるんだけど、ここに挙げた人たちは皆「十三人の合議制」にも選抜されている。

たしかに「公文所」の関係者は頭脳集団だから、「合議」には向いているよね。

源頼家
源頼家

のちに、オレの独裁を防ぐためにあれこれ言ってきた者どもだ。

こいつら語彙力豊富だから、言い負かされちゃってた。

頼朝が従二位に叙されたことをきっかけに、この「公文所」を前身として、鎌倉幕府に「政所まんどころ」という機関が設置される。もともとは「政所」というのは、三位さんみ以上の公卿くぎょうが設置することのできる家政機関なんだ。

頼朝が設置の資格を得たことによって「政所」を設置するんだけど、鎌倉幕府における政所は、頼朝の家政を統括するだけではなくて、幕府そのものの政治機関として機能していた。

初代別当は大江広元。兄の中原親能は公事奉行人くじぶぎょうにんという役目を担った。誰にどのくらい恩賞をあげるかとか、一般的な訴訟の整理とか、いろいろなことをやる。

大江広元
大江広元

兄ちゃんといっしょにがんばった。

北条義時
北条義時

正直、とても頼りになった。

関東武士って語彙力ないから。

控えめに言って、「やあやあわれこそは」しか知らないからな。

畠山重忠
畠山重忠

ちょっ、それは言い過ぎっしょ!

北条義時
北条義時

ごめん。

なお、中原親能ちかよしは、頼朝の側近という立場での功績もあり、日本各地に荘園を保有するんだ。

もちろん、名義だけの土地もあっただろうけど、伊勢・駿河・越後・近江・美作・阿波・長門・相模・豊後・筑前・筑後・肥前・日向・大隅・薩摩に親能ちかよしの関係する荘園があったのだ。

大・大・大地主だな。

ちょっと話が変わって、中原親能の猶子ゆうし(養子のようなもの)に、相模国出身の「大友能直よしなお」という人がいるんだ。中原親能が義父になるから、「中原能直よしなお」ということもある。

大友能直は、お母さん「利根局」が、もともとは頼朝の侍女であったことから、「頼朝の子どもではないか」という説もある。

彼は頼朝のお気に入りで、「富士の巻狩り」の「曽我兄弟の敵討ち」の際には、頼朝を必死で守ったらしい。

さて、先に中原親能が日本各国の荘園を持っていたと言ったけど、のちに、大友能直よしなお鎮西奉行ちんぜいぶぎょうになって、同時に豊前ぶぜん豊後ぶんごの守護となった関係で、親能ちかよしの持っていた豊後の荘園を大友家が相続したらしいんだね。

大友氏は、その後相模に住んだりもするんだけど、元寇をきっかけに、また豊後に一族の拠点を築いていく。

豊後・・・大友・・・まさか・・・

大友能直を初代として、21代目にあたる子孫が「大友義鎮よししげ宗麟そうりん)」

教科書太字レベルのキリシタン大名じゃないか!!

中原親能
中原親能

すげえ。

大江広元
大江広元

わしの一族には毛利元就がいたぞ!

中原親能
中原親能

わしら兄弟の一族が戦国時代に活躍していたなんて、テンション上がるわ。

そりゃあアゲアゲでしょうよ。

中原親能
中原親能

話変わるんだけど、ほかの人に比べて、わしだけイラストが雑な気がする。

適切な資料がなかったから、イメージで描いて、着物に中って書いておいた。

中原親能
中原親能

あつかい雑!

梶原景時
梶原景時

色があるだけいいと思う。