鎌倉初期の文官です。
お母さんが源頼朝のお母さんの血縁だったこともあり、鎌倉に下って頼朝に仕えます。
寺社の建設計画、褒美の手配、合戦における御家人の手配など、事務的な業務にはジャンルを問わず活躍しました。
奥州合戦や、頼朝の上洛において、頼朝に同行し、書記を担当しています。
公文所寄人ののち、政所令(いわゆる次官)になり、ついには政所の別当に就任します。
同じく政所の別当には大江広元がおりましたが、広元は平家討伐後から頼朝没までのあいだ、朝廷との交渉で京にいることが多かったので、その間、鎌倉での一般政務の中心的存在でした。
頼朝の死後、十三人の合議制のメンバーになっていますが、他の御家人とは異なり、派手な対立には登場せず、事務的な仕事を淡々とこなしていたと考えられています。
「政所の事務方トップ」としての役割は子孫に引き継がれ、その後、政所執事の役職を二階堂氏が世襲しました。

概要を聞いただけでも、「会社に一人はいてほしい有能な人」って感じがするね。

鎌倉幕府のかげの立役者。それが二階堂行政。

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(~それが二階堂行政」と。)

新しく公文所の建物をつくったときに、私といっしょにその棟上げを仕切りました。

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(~棟上げを仕切りました」と。)

公文所設立時に、大江広元が別当となり、二階堂行政は、中原親能らとともに寄人として参加している。

われらは大江さんのサポートです。

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(~大江さんのサポートです」と。)

二階堂行政のお母さんは、熱田神宮の宮司であった藤原季範の妹。
藤原季範という人は、頼朝のお母さんのお父さんにあたる人なんだ。
その縁もあって、頼朝とは早い段階でつながりがあったんだね。

宇佐神宮の修理について、わしと康信さんと行政さんで話し合って、書類を作ったりしたよね。

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(~書類を作ったりしたよね」と。)

大分県のほうのことまでやっていたのか!

宇佐神宮は日本中の八幡宮の総本社ですから、扱いも別格だったんですよ。
もともと、京にある石清水八幡宮は、この宇佐八幡宮の神様を京でもお参りできるように作られたものでして、さらにそれを鎌倉でもお参りできるようにしたのが鶴岡八幡宮です。

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(~鶴岡八幡宮です」と。)

ちょっと待って。
さっきからずっと書いている人がいる。

彼が二階堂行政。
とにかくひたすら書いている人だ。

このあともずっと書きますが、毎回出てくるとうっとうしいと思いますので、表現上はいったんいなくなります。

二階堂行政は、文書業務以外にも、事務方の仕事はなんでもこなした人だった。
特に、奥州藤原氏との関係では、朝廷に献上する馬を鎌倉でいったん預かるとか、いろいろやっていたんだね。
奥州藤原氏を討伐する動きになったときには、頼朝に同行して、記録を取ったり、朝廷への報告書を作ったりしている。

頼朝さんの近くで、忙しくしていたなあ。
わしらにはできん仕事だ。
わしは重いものを持ちあげるのは得意だがな! わはは!

重忠は本当に豪胆だなあ。

さすが重忠さんだ!

奥州合戦を征した後、頼朝の上洛に際して、京の寺社に絹を送るプロジェクトがあったんだけど、その担当をしたのが、中原親能や二階堂行政たち。

京の寺院にシルクを大量に届けました。

頼朝は奥州合戦で落命した人々を慰霊する寺社を作ろうとするんだ。
その建立を奉行したのが、三善康信や二階堂行政たちなんだね。

奥州平泉の中尊寺に匹敵する寺にしました。

でも不思議なことに、二階堂行政自身の発言が、ほとんど記録に残っていないんだ。

まあ、でも、わしらからすると、それはまったく不思議ではない。

うん。そうだよね。まったく不思議ではない。

なんで?

だって、ほとんど行政さんが書いてたから。

わしらの発言とかを、ひたすら書いてくれてたよな。

だから、書くのが忙しくて、そもそもあんまりしゃべってなかったよな。

そういえばさ、永福寺の庭に池をつくろうよって頼朝さんが言い出したことあったじゃない!

ああ~。あった、あった!

それはそれは見事な池になった。

あん時さ、工事が終わったあと、行政さんの家に酒もって行ったんだよ。
重忠がふらふらになってるから、どうしたのか聞いたらさ。

どうしたの?

すげえでっかい石を、重忠が「ふんっ!」って言ってひたすら運んだんだって。

からだじゅうが痛い。

馬だけじゃなくて、石も持ち上げるのが好きだったんだな。

さすが重忠さんだ!

何が面白いかって、行政さんはそれをひたすら書いてた。

生粋の書記官!!

永福寺のお堂が二階建てだったから、その周辺を「二階堂」って言うようになったんだね。
それで行政の子孫は「二階堂氏」を名乗るようになった。

え? じゃあ、当時はなんて言ってたの?

書類上ではほとんど「藤原行政」だね。

ほほう。

ところで、二階堂行政は、京をおさえるために美濃国の金華山(のちの稲葉山)に砦を築いていたんだね。
後世、その砦を改築して入城したのが斎藤道三で、その後、斎藤龍興を破って、稲葉山城をゲットしたのが織田信長。
信長はその後、稲葉山城を岐阜城と改めて、拠点とするんだ。
だから、岐阜城のもともとの築城主は二階堂行政なんだね。

へえ~。
やっぱり二階建てだったのかな?

もし、重忠が石を運んでたんなら、オレも酒もって行ったのにな。

いや~。美濃まで石持っていくのはキツイ。

いや、それができるのが重忠さんだ!

後世で、『吾妻鏡』という歴史書が編纂されるんだけど、その骨組みは、大江氏・三善氏・二階堂氏らの記録がもとになっている。
そのなかでも、二階堂行政や、その息子たちである行村・行光が残した記録は、かなり使用されていると考えられている。それらを北条氏が中心になってまとめたんだ。
だからこそ、北条氏にとって都合の悪いところは消されたり、あるいは、虚飾をまじえて加筆されたりしている。

ときまさあぁ!

いや、まとめたのはずっと後だし。
そもそもわしもけっこう消されてるし。

これといった用事もなく遊びに行くのは親友だろうな。
ファミコンとかやってたのかな。

ファミコンは存在しないけど、あるとしたら、どんなゲームで遊ぶのかな?

やっぱり「信長の野望」じゃないのかな。

ああ~。あの戦国大名家をひとつ選んで天下統一を目指すゲームか~。

わしは伊東家!

わしは大友家!

わしは毛利家!

オレは結城家!

それぞれが子孫を推しはじめたぞ。

いいよな。戦国時代まで血脈が続いたやつらはな。

わしはいつも信長を選ぶ。