『平家物語』の「敦盛の最期」はこちら。
従五位下っていうのは何なの?
律令制における階級のひとつだよ。細かく分けると30段階くらいある。
一位から三位までは、天皇のお住まいに出入りが許されているんだ。
四位と五位は、天皇に直接かかわる実務を担っていれば出入りできる。
六位は蔵人頭(天皇の秘書的役割の長)を任じられた5、6人だけが出入りできる。
一位から三位は「正」と「従」に分かれていて、四位以下はさらに「正」の上下と「従」の上下に分かれている。
この「位階」によって、就任できる官職が異なるんだ。
「従五位下」はどのくらい偉いの?
30くらいに分かれるうちの14番目だから、けっこうな地位だよ。
一般的には、この「従五位下」以上を「貴族」という。
あと、時代によっても違うんだけど、主に「従三位」以上を「公卿」という。
じゃあ、「正一位」ってむちゃくちゃ偉いんだな。
「正一位」はスーパートップの位階であって、まさに「頂点」。
生前に「正一位」を与えられた人は歴史上6人だけ。
普通は死後に功績が認められて「正一位」を与えられる人が多いんだ。
死後数百年経ってから「正一位」になる人もいる。
もっとも今に近いときに「正一位」が与えられたのは誰なの?
大正時代、1917年に織田信長に与えられて以来、誰にもその位階は与えられていない。
現在のところ、史上最後の「正一位」は織田信長なんだな。
そうなるね。
さて、敦盛の位階である「従五位下」は、「ここから上が貴族」というラインになる階級。ここから上にいると、天皇に直接お会いするチャンスが出てくる。
では敦盛は武士でありながら貴族であったわけだな。
そりゃあ笛も吹くわけだ。
合戦の前に、平家の陣から笛の音が聞こえてきたのだ。
一の谷のプレリュード
敦盛の笛は、忠盛(敦盛のおじいさん)が鳥羽天皇からもらったものだったそうだね。
「小枝の笛」とか「青葉の笛」と呼んだそうだ。
承久の乱を起こした天皇か。
ちがうよ。
それは「後鳥羽」。
平忠盛に笛をあげたのは「鳥羽」。
ややこしいな。
鳥羽天皇の曾孫が後鳥羽天皇。
「〇〇天皇」の治世に影響を受けていると「後〇〇天皇」という追号がつくことがある。
後醍醐天皇なんかは、醍醐天皇の政治を慕っていたから、生前に自ら「後醍醐」と決めていた。
あるいは、ただ単に血縁関係を強調するために「後」をつけることもあるね。歴史的には「誰が天皇になるか」で皇室がもめることがかなりあって、そういうときに、皇位の正当性を主張する意味でも「後〇〇」とつけることがけっこうあったよ。「実際に天皇であった〇〇の血縁がある後〇〇だぞ!」という感じ。
とにかくその後鳥羽のおじいちゃんの鳥羽から平忠盛がもらった笛を、孫の敦盛が譲り受けていたということなのだな。
鳥羽天皇のお父さんは堀河天皇。
この「堀河&鳥羽」という親子が、笛の名手として名高いんだ。
平忠盛が鳥羽天皇のお住まいに出入りすることを許されたからこそ、その後、平家一門が力を持っていくんだ。
忠盛の息子の清盛のときには、一気に平家フィーバーになる。
それはそれは由緒正しき笛だな。
いまでも須磨寺というお寺に安置されていて、見ることができるよ。
江戸時代には松尾芭蕉も見に行っている。
俳聖松尾芭蕉がわざわざ見に行くとは、よほどの笛だろう。
須磨寺は一の谷の戦いのときに、源義経軍が本陣をはったところ。
敦盛の首を洗ったとされる池もある。義経が腰かけた松もある。
ずいぶん見どころがあるな。
熊谷直実(蓮生)がつくった敦盛像もある。
敦盛殿を思い出しながら仕上げた。
かたじけない。
この一の谷の戦いの際の平敦盛と熊谷直実のやり取りは、「敦盛」というタイトルで、幸若舞(能や歌舞伎の原型)の演目になったり、世阿弥の手で能の演目になったりしていった。
幸若舞の「敦盛」を好んで舞ったのが織田信長。
今日は織田信長がよく出てくる。
熊谷直実と平敦盛の物語は、戦国時代まで語り継がれていたのか・・・。
戦国時代なんてもんじゃない。
明治39年に、尋常小学校の唱歌になった「青葉の笛」という歌の一番は、敦盛のことを歌ったもの。
よっしゃ。
なんと。
そして今、中学2年生の古文の定番教材は『平家物語』の「敦盛の最期」。
ええー。
すげえ。
800年以上前のわずかな時間の出来事を、現在の子どもたちの多くが知っている。
じゃあ、権田栗毛も有名なんだな!
わしの愛馬だ。
権田栗毛はあんまり知られてない。
ちょっ!