敦盛の最期『平家物語』現代語訳

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熊谷直実って何した人? ―日本一の剛の者 平敦盛討ち取って 思うところあり出家した―
熊谷直実(法力房蓮生) くまがいなおざね(ほうりきぼうれんせい)平安時代末期から鎌倉時代初めにかけて活躍した武将・僧侶です。数々の合戦で先陣を争う勇猛ゆうもうな武士でした。源頼朝よりともは、熊谷直実くまがいなおざねを「日本一の剛の者」と評し

平敦盛がどんな人だったのかはこちら。

平敦盛って何した人? ―後世まで 語りつがれる 笛の音―
平敦盛 たいらのあつもり平安時代末期の武将です。お父さんは平経盛つねもり(平清盛の弟)です。おじいさんは平忠盛ただもり(平清盛の父)です。位階は従五位下じゅごいのげを叙じょせられましたが、その際、官職につかなかったので、無官大夫むかんのたい

「さては、なんぢにあうては、名のるまじいぞ。なんじがためにはよい敵ぞ。名のらずとも首をとつて人に問へ。見知らうずるぞ。」とぞのたまひける。熊谷、「あっぱれ大将軍や。この人一人討ちたてまつ(り)たりとも、負くべきいくさに勝つべきやうもなし。 

また討ちたてまつらずとも、勝つべきいくさに負くることもよもあらじ。小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはんずらん。あはれ助けたてまつらばや。」と思ひて、後ろをきつと見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつづいたり。熊谷、涙をおさえて申しけるは、「助けまゐらせんとは存じ候へども、見方の軍兵、雲霞のごとく候ふ。よものがれさせたまはじ。 人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養をこそつかまつり候はめ。」と申しければ、「ただとくとく首をとれ。」とぞのたまひける。熊谷、あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうきめをばみるべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな。」 とかきくどき、袖を顔におしあてて、さめざめとぞ泣きゐたる。

やや久しうあつて、さてもあるべきならねば、鎧直垂をとつて、首をつつまんとしけるに、錦の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。「あないとほし、この暁、城の内にて管絃したまひつるは、この人々にておはしけり。 当時味方に、東国の勢何万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈は、なほもやさしかりけり。」とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人、涙を流さずといふことなし。 後に聞けば、修理大夫経盛の子息に大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ熊谷が発心のおもひはすすみけれ。

『平家物語』

「さては、なんぢにあうては、名のるまじいぞ。なんじがためにはよい敵ぞ。名のらずとも首をとつて人に問へ。見知らうずるぞ。」とぞのたまひける。

「では、あなたに対しては、名のるまいぞ。あなたのためには(私は)よい敵だ。名乗らなくても(私の)首を取って人に問え。(私を)知っているだろう」と(敦盛は)おっしゃった。

熊谷、「あっぱれ大将軍や。この人一人討ちたてまつ(り)たりとも、負くべきいくさに勝つべきやうもなし。 

熊谷は、「ああ立派な大将軍だ。この人一人をお討ち申し上げたとしても、負けるはずの戦に勝つはずもない。

また討ちたてまつらずとも、勝つべきいくさに負くることもよもあらじ。

また お討ち申し上げないとしても、勝つはずの戦に負けることはまさかあるまい。                                

小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはんずらん。あはれ助けたてまつらばや。」と思ひて、後ろをきつと見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつづいたり。

(自分の息子である)小次郎が軽い傷を負ったことさえ、直実はつらく思うのに、この殿(敦盛)の父は、(敦盛が)討たれたと聞いて、どれほどれほどお嘆きになるだろうか。ああ お助け申し上げたい。」と思って、後ろを きっ と見たところ、土肥、梶原(率いる軍勢が)五十騎ほどで続いている。

熊谷、涙をおさえて申しけるは、「助けまゐらせんとは存じ候へども、味方の軍兵、雲霞のごとく候ふ。よものがれさせたまはじ。人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養をこそつかまつり候はめ。」と申しければ、「ただとくとく首をとれ。」とぞのたまひける。

熊谷が、涙をおさえて申し上げたことには、「お助け申し上げようとは存じますが、味方の軍兵が、雲霞のようにおります。まさかお逃げになることはできないだろう。(私以外の)人手におかけ申し上げる(ようなこと)より、同じことならば、直実の手におかけ申し上げて、死後の御供養をしてさしあげましょう。」と 申し上げたところ、(敦盛は)「ただ早く早く首をとれ」とおっしゃった。

熊谷、あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。

熊谷は、あまりに気の毒で、どこに刀を刺すのがよいとも思われず、目もくらみ心も消えはてて、前後不覚に思われたが、そうしてばかりもいられないので、泣く泣く(敦盛の)首を切ってしまった。

「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうきめをばみるべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな。」とかきくどき、袖を顔に押しあてて、さめざめとぞ泣きゐたる。

「ああ、武士ほど残念であったものはない。武芸の家に生まれていなければ、どうしてこのようなつらいめにあうだろうか【このようなつらいめにあうことはないだろう】。「心もなくお討ち申し上げたものだなあ。」と、くどくどぐちを言い、袖を顔に押しあてて、さめざめと泣いていた。

やや久しうあつて、さてもあるべきならねば、鎧直垂をとつて、首をつつまんとしけるに、錦の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。

やや長い時間がたって、そうしてばかりもいられないので、(敦盛の)鎧直垂をとつて、首を包もうとしたところ、錦の袋に入れた笛を、(敦盛は)腰にお差しになっていた。

「あないとほし、この暁、城の内にて管絃したまひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に、東国の勢何万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈は、なほもやさしかりけり。」とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人、涙を流さずといふことなし。

「ああかわいそうだ、今日の暁、平家の城の中で演奏をしなさっていたのは、この人たちでいらっしゃったのだなあ。現在味方に、東国の兵の勢力が何万騎かあるだろうが、戦の陣へ笛を持つ人はまさかいまい。身分の高い人は、やはり優雅であるなあ。」と言って、九郎御曹司に(首と笛を)お見せしたところ、これを見る人が、涙を流さないということはない。

後に聞けば、修理大夫経盛の子息に大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ熊谷が発心のおもひはすすみけれ。

後になって聞いたところ、修理大夫経盛の子どもである大夫敦盛といって、生年十七歳になっていらっしゃった。その時から、 熊谷の出家しようという思いはますます強くなった。

直実は、その後出家して法然ほうねんの門徒となり蓮生れんせいとなのりました。