三浦義澄の妻は、伊東祐親の娘なんだよね。
祐親さんは、娘である八重姫が頼朝の子どもを産んだことに対して、とても怒って、頼朝を討とうとした人だな。
そのとおりだ。
そのときは、祐親の息子の祐清が、「頼朝さん、狙われてるよ」って教えてあげたんだね。
そんで、頼朝が逃げてきたのがわしの家。
ちなみに、わしの最初の妻も伊東祐親の娘。
八重姫にはお姉さんが二人いて、そのうちの一人が北条時政の最初の妻で、もう一人が、三浦義澄の妻なんだね。
だから、祐親さんは、わしの義理の父親だ。
頼朝が挙兵したときの第一戦目は、伊豆の目代である山木兼隆を討って、頼朝が勝利した。
第二戦目の「石橋山の戦い」では、わしと大庭景親が協力して、逆に頼朝軍を撃破した。
われら三浦一族が間に合わなかった合戦だ。
川が増水していて、渡れなかったんだよな。
自分はそもそも出発が遅かった。
わしはそのとき平家側にいたから、三浦一族と由比ガ浜で会っちゃったときは、お互い「うわあ」って思ったよね。
「うわあ」って思いながらも、お互い親戚関係も多くて、和睦が成り立ちそうだったところに、義茂が遅れてきて、切りかかっちゃうんだよな。
それで結局は合戦になっちゃう。
その節は本当にすまん。
そのままわしらは三浦氏の本拠地である衣笠城を攻めた。
老齢であった三浦義明は、子どもや孫たちに、海をわたって安房国方面に逃げるように言って、自分は城に残るんだね。
わし、かっけえ。
おやじ、かっこいいぜ。
おじいちゃん・・・・・・
おじいちゃん・・・・・・
おじいちゃん・・・・・・
伊東祐親や大庭景親らの軍は、敗走した頼朝を探すんだけど、見つけることができなかった。
そのときは平家側にいたわしが洞穴の中で見つけたんだけど、頼朝が大物になりそうな予感がしたから、見つけなかったことにして逃がしちゃった。
だから、頼朝さんは、あとでわしが仲間になったときに、「あんときは逃がしてくれてありがとう」っていう感じで、わしを重用してくれたのだ。
伊東祐親は、やっぱり頼朝が憎くて敵対したのかな?
ここらへんはそういう私的な理由ではなくて、そのとき平氏側から役職をもらってはたらいていたから、流れでそうなった。
わしの行動原理はサラリーマンが会社に尽くして、家庭と一族を守るというものに近い。
石橋山の戦いに負けた頼朝だったけれども、三浦義澄たちと合流し、その後、一度は敵対していた畠山重忠たちとも合流し、鎌倉に入るころにはものすごい勢力になっていた。
時を同じくして、河内源氏の流れをくむ武田信義は、甲斐国で平家打倒の挙兵をして、駿河国の目代を討った。
平清盛から東国への出撃命令を受けていた平家軍は、ずいぶん時間がかかりながらも軍勢を用意して、清盛の孫である維盛が率いる軍が東に向かった。
そして、駿河国富士川の西側に平家軍、東側に武田軍という格好になる。頼朝も鎌倉を出発していて、武田軍のバックに頼朝軍が備えることになる。
それはさぞ血みどろの合戦が繰り広げられたであろう。
それが、急ごしらえの軍で、兵糧もほとんどなかった平家軍は、そもそも結束していなかったんだね。
武田軍だけでもかなり強いのに、後ろには関東を統一した頼朝軍が控えている。
武田軍が富士川の浅瀬を渡ろうと、馬で進むと、たくさんの水鳥がバサバサーッと飛び立った。それを武田軍の進撃だと勘違いした維盛軍は、あわてふためいて撤退してしまった。
遠江国まで退却したときにはもう平家軍は散り散りになっていて、維盛が京に戻った時には10騎くらいになっていたらしい。
なんという不名誉。
まあ、ちょっと話も盛られているだろうけど、「結束の強い源氏」に対して、「統率のとれていない平家」というのは事実だった。
このとき頼朝さんは、「このまま京までいくぞオララー!」って感じだったんだけど、「一回鎌倉に戻ったほうがいいですよ」って止めたのがオレだ。
なんで止めたの?
最大の理由はまだ関東をまとめきれていないからだ。
平家側に大庭景親や伊東祐親がいたことからも、関東の武将でもまだ「反頼朝」がいたからね。
頼朝が大軍を率いて上洛しているあいだに、鎌倉を攻めてくる勢力があるかもしれない。そのへんをまずはしっかりやろうというのが、三浦氏や千葉氏の主張だった。
それに、「富士川の戦い」で最前線で戦ったのは武田軍だったでしょ。
武田の本拠地は甲斐国(いまの山梨県)だけど、この合戦を機に駿河国(いまの静岡県)を制圧したことになる。
この時点では武田は頼朝さんの「同盟軍」であって、傘下ではないから、よくよく話し合わずに頼朝さんがそこを通って京に進軍したら、武田にとってはあんまりいい気分じゃないよね。
いろいろな人間関係があるんだな。
この富士川の戦いの人間模様はドラマチックだぞ。
頼朝さんの弟の義経さんが、「兄ちゃんを手助けするんだ」といって、奥州から駆けつけて、対面を果たすんだ。会えたのは合戦のあとだったけど、頼朝さんも大喜びだった。
そして、わしはというと、この合戦で捕らえられちゃった。
そこで祐親さんを預かったのがオレだ。
妻の父が祐親さんだからな。
「石橋山の戦い」でタッグを組んでいた大庭景親は処刑されてしまった。
わしも、もはやここまでだな。
むむう。
祐親さんは義理の親父だから、なんとか命だけは助けられないものか・・・
そうだ。頼朝さんの妻の政子さんのご懐妊のニュースが飛び込んできたから、「まあまあ、おめでたいときに処刑をしなくても・・・」というセンで交渉してみよう。
伊東祐親は、頼朝と八重姫を別れされ、二人の子どもを殺すよう指示した人物だから、頼朝が祐親を許すはずもなかったんだけど、意外にも義澄の交渉は成功してしまう。
頼朝、寛大だな。
三浦義澄が言ったからだろうね。そのくらい三浦義澄は信任を得ていた。
けれども、祐親さんは、「以前の行いを恥じる」と言って、自害してしまった。
「以前の行い」ってなんだ?
おそらく、頼朝と八重姫の仲を裂いて、二人の子どもを殺す指示をしたことだろうね。
当時の状況を考えると、一族を守るために平家にたてつくわけにはいかないから、祐親の指示は無理もないことなんだけど、そののち頼朝は強大な勢力になるから、結果論としては、祐親には先見の明がなかったことになる。
こんなことだったら、頼朝と八重姫をそのまま結婚させておけば、伊東家は頼朝の重臣としての最大勢力になっていたかもしれない。
祐親は選択を誤ったのだな。
まあ結果論だけどね。
三浦義澄はというと、その後も頼朝の重臣として活躍し、「一の谷の戦い」「壇の浦の戦い」「奥州合戦」などに参加して活躍する。
平家討伐後に、頼朝さんが右近衛大将に任ぜられたときは、その拝賀の儀式にお仕えする7人のうちに選ばれた。たいへんな名誉だ。
さらに、頼朝の躍進に貢献した御家人ベスト10みたいなやつにランクイン!
すげえ!
ところが、その褒章の位置づけだった官職を息子の三浦義村に譲っちゃう!
なんか、「義村がもらっとけよ」って譲ってくれた。
オレはありがたく頂戴して、右兵衛尉に任ぜられた。
兵衛府はかつて頼朝さんもいらしたところだ。縁起がいいぜ。
義理のお父さんを助けようとしたり、官職を息子に譲ったり、義澄は家族思いなんだな。
天皇や皇室関係者の護衛や警護のために、兵衛府・近衛府・衛門府という組織があったんだね。それぞれに「右」と「左」があるから、これらを総称して「六衛府」という。
それぞれに督・佐・尉・志というランクがある。
ちなみに平清盛は12歳くらいで左兵衛佐になっている。
源頼朝は、平治の乱のときに13歳で右兵衛権佐になるんだけど、お父さんの義朝が清盛側に敗北したことで解任されて、伊豆に流されちゃった。
時々出てくる「権」っていうのはなんだ?
官職は人数が決められているんだけど、それを超えて配置することがあるんだ。
たとえば「4人」と決められている官職に5人目が採用されると、その人が「権官」の扱い。
ただ、南北朝時代の大納言や中納言などは、「正式採用」がそもそもできていなくて、全員「権官」だったみたい。
ふむふむ。
頼朝で言えば、奥州合戦のあと、権大納言になり、そのあとすぐに右近衛大将になっている。その拝賀の儀式で側近7名に選出されているのが義澄ということだね。
その2年後、頼朝は征夷大将軍になる。これをはじまりとして、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府のトップは「征夷大将軍」だということになっていった。
この「頼朝を征夷大将軍にするよ」という除書(任命書)が鎌倉に届いたとき、それを鶴岡八幡宮で受け取ったのが三浦義澄だ。
ものすごく緊張した。
父ちゃん(義明)の功績も大きかったから、わしが選ばれたのだ。
『吾妻鏡』には、「義澄除書を捧持し、膝行してこれを進す。千万人の中に義澄この役に応ず。面目絶妙なり。」と書かれている。
「面目絶妙」・・・・・・。おやじ、超かっこいいぜ!
このように、頼朝が最も信頼した御家人の一人であった義澄は、頼朝の死後も鎌倉幕府で重要な役割を果たしていく。
頼家の専制をおさえる「十三人の合議制」のメンバーにもなった。
重要人物で固めたけど、わりとすぐに解散しちゃったというやつだな。
いきなりわしが追放されちゃったからな。
くわしくはこちら。
三浦義澄は、梶原景時が駿河国で討たれた3日後に亡くなっている。
いきなり11人の合議制になっちゃったんだな。
わしは、父である杉本義宗と、おじさんである三浦義澄を弔うために、薬王寺という寺をつくったんだ。
いまは寺はなくなってしまったけど、義澄おじさんのお墓は残っている。