陳和卿はいつごろ日本に来たんだろうね。
正確にはわかっていないんだ。
このころの日本は、宋と「日宋貿易」という交流をしていたんだよね。
1173年には平清盛が「大輪田泊」という港を拡張して、近畿から直接宋に行けるようになった。いまの神戸港だね。
この貿易はかなり活発で、東大寺再建のリーダーだった「重源」というお坊さんは3回も宋に行っているんだ。
陳和卿もこうした交流のなかで日本に渡っていたんだろうね。
どうして東大寺や大仏は焼けちゃったの?
「保元の乱」と「平治の乱」の勝利で平清盛がそうとう力を持ってくるんだけど、「興福寺」や「東大寺」といった寺院とはうまくいってなかったんだ。清盛の政策にも反発しているんだね。
そこに1180年の以仁王の挙兵があって、「平氏打倒」のムードが高まってくるんだ。「興福寺」の僧兵が源氏の挙兵に加勢したこともあって、「平重衡」がこれを鎮圧しにくる。最初は僧坊を焼くだけの計画だったみたいだけど、風にあおられたりして、想像以上に火が広がってしまうんだ。
「興福寺」と「東大寺」は1kmも離れていないので、飛び火して燃え広がっちゃったみたいだね。
なんと!
「南都焼き討ち」っていわれているよ。
清盛は、その後もこれらの寺院の再建を認めなかったんだけど、翌年、平家の政治に理解を示していた高倉天皇が崩御し、清盛も高熱で亡くなってしまう。
人々は皆「仏様の罰があたったのだ」とうわさしたらしいね。
仏様がお怒りですよ。
こりゃあ、再建しないとまずいぞ。
清盛のあとに政権を担った平宗盛もそう考えて、再建がはじまるんだ。
重源が中心になって、歩きまわって寄付を募って、まずは大仏を修復するんだね。そのときに手伝ったのが陳和卿。
大仏が直ったときには、開眼供養の儀式に後白河法皇が来て、自ら眼を入れたみたいだね。
重源様に誘われので、がんばりました。
その後に大仏殿の再建が本格化するんだけど、木材の調達が困難で、なかなか進まないんだね。
この時点では平家を倒し終わった頼朝がブイブイになっているから、東大寺の再建にはかなり協力しているんだ。
陳和卿にも会おうとするんだね。
でも陳は、「多くの人の命を奪った業の深い人間には会わない」と言って、面会を拒否しちゃう。
かっけえ。
でも頼朝は激おこだろう。
それが、逆に感心しちゃったらしくて、褒美のものをあげるんだけど、それも陳はほとんど返却しちゃって、受け取ったものは寺にあげちゃった。
大仏殿再建の素材になるものはもらって使いました。
陳はその後、東大寺再建の功績で播磨国の荘園をいくつかもらうんだけど、それも重源に寄進しちゃう。寄進すると、所有者の名義が自分ではなくなる。
この土地欲にまみれた時代になかなかできませんよ。
まあ、宋に帰ったら、日本の土地あってもしょうがないしな。
ところが、東大寺の僧侶たちが、「寺のために集めた木材を陳が自分のものにしている」とか、「土地を一度は寄進したことにして、でも結局は自分のものにしようとしている」とか言い出して、陳に悪評がたっちゃう。
完璧なぬれぎぬ。
東大寺からしてみたら、重源も陳和卿も部外者だからね。
悪評をでっちあげて、追放しようとしたのかもしれないね。
実際、後鳥羽上皇が「追放」って命じて、追放されてしまう。
どいひー。
まあ世の中こんなもんだ。
その後は記録がほとんどないんだけど、突如、鎌倉幕府に現れて、実朝と面会をしたらしい。
実朝さまは昔、宋の医王山の長老だったんです。私はその弟子だったんです。
唐突に突拍子もないことを言い出したぞ!!
ところが、この話が実朝が以前に見た夢とおんなじだったんだって!!
おかげで信用されました。
その夢の話があったからなのか、実朝は宋に行きたがるんだね。
それで、陳和卿に造船を命じるんだ。
陳和卿は実朝が宋に行くための船をがんばって造る。
わくわくする話だな。
ところがその船は海に浮かべることができなくて、由比ガ浜に置きっぱなしになったらしい。
ショック・・・。
その後の陳和卿の足取りは不明なんだ。
いい仕事ができずにいなくなったのか。
残念だな。
まあ、でも、桂や銀杏の木にきれいな植物なんかの模様を彫る独特の技法があって、それは「鎌倉彫」といって、現在に伝わる伝統工芸なんだ。
ふむ。
これは陳和卿が伝えた技法で、鎌倉のお寺で陳和卿が彫ってたのが始まりなんだって。
むっちゃいい仕事してるじゃん!!