平安時代末期~鎌倉時代前期の武将です。
お父さんは豊島清元です。
秩父平氏の系統で、お父さんは武蔵国豊島郡に所領を持ち、また、下総国の荘園を寄進し、葛西御厨(いまの東京都葛飾区)として保有していました。三男であった清重は、その葛西御厨を相続したため、葛西氏を名のるようになります。
源頼朝からは早い段階から協力のお誘いがありました。頼朝が石橋山の戦いで敗走し、安房国に上陸して、墨田川まで来たところで合流しました。
他の秩父平氏の一族は、石橋山の戦いにおいて頼朝とは敵対する勢力をなしていましたが、豊島清元・葛西清重父子はそれには加わっていなかったこともあり、頼朝からの信任はひときわ厚かったようです。
葛西清重は、頼朝の寝所を警護する11人の家子に任ぜられ、平家討伐の戦いや、奥州合戦で活躍しました。特に奥州合戦での武功が高く、初代の奥州総奉行に任ぜられています。
晩年は、親鸞に帰依し、西光坊定蓮と称しました。

葛西臨海水族館のほうの人か。

かなり早い段階から源頼朝への協力姿勢を見せていたんだけど、秩父平氏の一族(畠山・河越・江戸など)は、最初は頼朝に敵対する勢力だったから、一族の関係を考えると、簡単には参戦できなかったようだね。
それに、いまの東京23区の南側のほうは、当時は湿地帯か草ぼうぼうゾーンだったから、馬が走れないんだ。そのため、「葛西から伊豆」に行くには、いまの西東京のほうに回るか、房総半島から舟を使うかなんだね。頼朝は「海からおいで」って熱心に勧誘していたようだね。
結果的には石橋山の戦いで敗れた頼朝が海を渡って安房に上陸し、千葉氏と上総氏を味方につけたうえで隅田川のほうまで来るんだけどね。

豊島清元・葛西清重父子は、石橋山の戦いで秩父平氏軍団に参加しなかったから、頼朝さんからも信頼が厚かっただろう。

ああ~。
畠山・河越・江戸とかは、頼朝側の三浦氏と戦ってたからな。

頼朝は、江戸重長に対して、「味方になれ」と言っていたんだけど、なかなか頼朝側につこうとしない。
そこで、葛西清重に江戸を討つように命じるんだけど、そうこうしているうちに畠山氏・河越氏が帰伏したこともあり、江戸も頼朝軍に参入することになる。葛西は江戸の親戚だから、説得したり手引きしたりしたのだろう。

頼朝も、一度は討とうとした江戸をよく許したね。

畠山なんかは、そのときの家長である重能は京にいたから、「秩父の一族をまとめて協力してね」というお願いは江戸重長に出してたんだよね。
それなのに江戸がぐずぐずしていたもんだから、「頼朝にしたがうよ」となったあとも、頼朝は江戸氏の所領を没収して、葛西にあげようとした。

まあそうなるわな。

ところが、葛西清重はこれを拒否!

そもそも、わしらががんばるのは、一族を繁栄させるためなんだ。
親戚である江戸から所領をまわされても、親戚一同が栄えることにならないからね。

頼朝は納得せずに、葛西も叱る!

では、まったく無関係の人にあげちゃってください。

おお~。
肝が据わっておるわ。

頼朝は、逆に、「おめえ、やるな・・・」って感じで、葛西清重の器に感じ入る。それゆえ、江戸も許すことにする。

なんか、『サラリーマン金太郎』とかにありそうな展開だな。

ああ~。
そもそも鎌倉の御家人って、ほとんど暴走族だからな。

言えてる~。

おめえら、出発すっぞ!

”待”ってたぜェ!! この”瞬間”をよォ!!

弓矢に”命中”るやつは、”不運”と”踊”っちまったんだよ・・・

特攻の梶

いやいや、特攻はいつもオレでしょ。

たしかに、関東武士って、族っぽいところあるよね。

さて、そうこうして頼朝に厚く信頼された葛西清重は、頼朝の寝所を警護する11人に選出されている。
平家討伐軍としては、範頼に従軍して、九州上陸に貢献している。

ああ~。
下河辺が甲冑を売って舟を買って一番乗りを目指したやつか。

オレのもっとも誉れ高いエピソードだ。

あん時の下河辺はスゴかったよな。

矢が下河辺のほうに飛んでいくとハラハラしたよね。

”不運”と”踊”っちまわなくてよかったよな。

奥州合戦では、大手軍の先陣は畠山重忠だった。
ある晩、「翌朝に進軍するぞ」というタイミングで、三浦義村とか葛西清重とかが夜のうちに先駆けしてしまった。

抜け駆けして”先陣”をとってやっぞ。

重忠さんにはワリいけど、たまには”先陣”をとってみてえぜ。

畠山重忠の郎党は、葛西や三浦を止めようとするんだけど、重忠は「止めなくていい」という態度だった。

頼朝さんから先陣を命じられているのはオレだから、誰が先に敵を追いやっても、オレの功績は変わらないさ。
それに、一番乗りを目指しているやつらの邪魔をするのは、武士っぽくねえしさ。

器でけえ。

そん時、”フッ”とか言ってよ。
”先陣”が見えそうになるんだよ。

オレが手に入れてやる・・・! その”領域”・・
”先陣”を・・!!

結局、この抜け駆け組は大活躍。
奥州藤原氏討伐のあと、葛西清重は陸奥国に数か所の所領を与えられただけでなく、奥州総奉行に任命されて、陸奥国の御家人を統括する役目を果たした。
奥州藤原氏の残党である大河兼任が反乱を起こした時は、葛西清重や千葉胤正らが平定にあたっている。

オレら”家子”メンバー。
ダチのためならどこでもいくぜ。

その後、葛西清重は鎌倉に戻って引き続き頼朝の重臣として存在感を保っていく。

奥州はどうなるんだ?

伊沢家景という人が陸奥国留守識という役職について、鎌倉幕府との連携に基づいて統治したんだ。伊沢氏は、その後「留守氏」と称していった。

お留守番の留守か!?

留守はもともと、神とか帝といった「最上級」の存在の代わりにそこに留まって守るということだからね。
頼朝の代わりという意味なのか、葛西清重の代わりという意味なのかは不明瞭だけど、とにかく「その場の最高責任者」ということだね。

へええ~。

頼朝没後も、葛西清重は北条氏からの信頼が厚く、数々の乱では北条氏に与している。
老齢期には、親鸞が家に立ち寄った際、長引く雨でしばらく滞在したことがきっかけで、清重も出家して定蓮と称するようになった。
いまの東京都葛飾区にある西光寺というお寺は、清重が出家した流れで自宅をお寺にしたものだ。

へえ~。
清重の家だったのか!

仏道に”出発”したんだぜ。