さて、三浦義村は、梶原景時の変では、景時を鎌倉から追放する勢力に加担しているんだ。景時が討たれた3日後にお父さんの義澄が病没して、義村が三浦家の家督を継いだんだ。
66人に「辞めろ」って言われたキツイ事件だった。
その後、畠山重忠の乱が起こる。
まず、重忠の息子「重保」が、由比ガ浜に呼び出されて殺害されてしまう。
これを指図したのが義村。
とんでもねえな。
でも、畠山重忠にかけられた謀反の疑いが、実際には虚偽であり、重忠が無実であったことがわかる。
すると、義村は、「重忠が謀反を起こそうとしている」と言い出した者たちを処刑する。
グッドジョブ。
その後、二代執権の「北条義時」と、侍所所司の「和田義盛」の仲が悪くなる。この時代、「所司」というのは、いわゆる管理職のこと。
さいきん和田義盛が生意気。
義時こそ、すんげえ挑発してくる。
こりゃあもう挙兵だ!
やる気まんまんだ!
さて、三浦義村もわしの味方をしてくれるはずだ。
なぜなら、我らはおじいちゃんが同じ「三浦義明」だから、いとこ同士なんじゃ。
義村は「一緒に戦うよ」って「起請文」も書いてくれたしな。
ともに北条義時を討とう(棒読み)
「起請文」というのは、誓約書のようなものだよ。
でも、義村はこっちに来ました。
いとこを裏切ったのか!
そう。
義村は北条義時の側につき、和田義盛と敵対する。
和田義盛は、合戦のすえに敗死する。
おのれ義村。
その後、三代将軍「源実朝」が、源頼家の遺児である公暁に暗殺されるという大事件が起きす。
公暁は、「自分こそが将軍だ」と言い、乳母の夫である三浦義村を頼って、迎えにきてほしいとお願いするんだ。
義村は「いま行きますよ」と返事するんだけど、じつはそのまま公暁を討ちにいく指図をするんだ。
結局、公暁は、「迎えがなかなか来ないなあ」と思って、義村の屋敷まで来て、塀を乗り越えようとしているところを討たれてしまう。
わしの指図です。
義村、そうとうなやつだな。
将軍の暗殺者を討ち取ったわけだから、幕府からみれば「功労者」になるよね。
それで義村は「駿河守」という国司の役職を与えられているよ。
よくやったぞ義村。
こうやって、どんどん勢力を大きくしていく北条義時を危険視した人物がいるよ。
それは後鳥羽上皇。
そもそも、後鳥羽上皇と三代将軍の実朝はうまくいっていたので、実朝が暗殺されたことは、後鳥羽にとって「幕府は危険」と思う決定打だったんだ。
そりゃあ危険だよね。
朝廷が「幕府をやっつけようよ!」と画策しているときに、義村の弟である三浦胤義という人物が、検非違使いう仕事についていて、京にいたんだよ。
この三浦胤義という人の妻は、かつて源頼家の妻だったんだ。頼家とのあいだに「禅暁」という息子がいた。
ということは、禅暁は、公暁の兄弟だな。
禅暁は公暁の弟だよ。
「胤義の妻」から見れば、前夫の「頼家」は北条時政の謀略により殺されている。
そして、息子の「禅暁」は、公暁が実朝を殺害した事件に加担していたという嫌疑をかけられ、のちに殺されている。指図したのが北条義時であることはまず間違いない。
夫を殺したやつの息子に、息子を殺されたのか。
三浦胤義は、妻の心を思いやり、「北条氏」になびくことをよしとしなかったんだ。
だから、「後鳥羽率いる朝廷軍」対「北条義時」という合戦では、「朝廷側」につくことを決心するんだね。
「さすがの義時も、朝廷の敵となっては終わりだろう」と思って、兄である義村に、朝廷側につくことを勧める手紙を出すんだ。
なんか、やな予感がするぞ。
義村は手紙だけ受け取って、使者を追い返し、届けられた密書を北条義時に渡してしまう。
「義時を討つぞ」っていう密書をもらいましたっス。
なんか、わしを倒そうって書かれてた。
義村、大手柄。
逆に朝廷を倒すぞ!
時は承久。
これが承久の乱である。
三浦胤義は、朝廷側の中心人物として合戦に臨むけれど、美濃国でも宇治川でも敗北する。
幕府軍が京に入ると、後鳥羽上皇は、「三浦胤義とかが勝手にやったんだよ。義時を討とうって命令はなしにするよ」という使者を鎌倉に送って、胤義たちを逮捕しようとするんだ。
ふんだりけったり。
胤義は東寺に立てこもる。
そこに幕府軍が進軍してくるんだ。
軍を率いていたのは義村。
うおおおぉぉぉぉ! 兄弟対決!!
胤義は、「兄ちゃんに人間らしい心があるなら、おれが自害するところを見ろ!」なんていろいろ言うけど、義村は、「痴れ者!」といって立ち去ってしまうんだ。
バカの相手をしても無益だ。
結局この「承久の乱」は、幕府側の大勝利。
朝廷側の上皇である「後鳥羽」を隠岐島に流罪として、「順徳」は佐渡島に流罪とした。「土御門」は乱に直接関与していないんだけど、自分から土佐国に行くことになった。
その後、幕府は、後鳥羽の系統から皇位継承者を出させないように関係者をほとんど流罪にして、高倉天皇の系統である後堀河天皇を即位させるんだ。
これは、皇位継承を幕府が決めるという、朝廷からしてみたらありえないこと。
このあたりを手続きしたのは北条義時の息子の泰時だけど、義村がかなり手引きしたようだね。
大活躍だなあ。
結局このあと、「十三人の合議制」の継承機関ともいえる「評定衆」という機関に採用されている。いまでいう「内閣」の「大臣」みたいなものだね。
「御成敗式目」という「武士の法律」にも義村の署名があるから、相当な権力をもっていたといえる。
実際、この三浦義村の活躍で、鎌倉幕府において、三浦氏は北条氏につぐ地位を得るんだね。
子孫はわしに感謝するはず。
ただ、小倉百人一首の選者として有名な「藤原定家」は、「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と書いている。
「義村は多方面に謀略をめぐらせていて、不可思議な人物だ」ということだね。
同時代の貴族には、そんなふうに思われていたみたい。
ちょっとショック。