大江広元 ―文書の仕事は総じて得意 先祖も子孫も教科書太字―

人物
大江広元 おおえのひろもと

平安時代後期から鎌倉時代初期の貴族です。

兄(または義兄)である中原親能ちかよしの縁もあり、源頼朝にまねかれて鎌倉に下ります。

頼朝の家政を統括し、公文所くもんじょ別当となり、のちに政所まんどころ初代別当となります。

平家討伐後、全国に守護、地頭を置いたのは大江広元の案だったといいます。

二代将軍源頼家のときには、北条時政たちと相談し、「十三人の合議制」を立ち上げました。

三代将軍源実朝に対しては、都の文化を教え、実朝の教養を刺激しました。

実朝の死後も北条義時たちと合議し、幕府の頭脳分野を支えました。

大江広元については、兄である中原親能とセットでおさえてほしい。

中原親能の紹介はこちら。

中原親能も大江広元も、「頭いい!」って感じなんだな。

大江広元については、時代をさかのぼって、平安時代中期の「赤染衛門あかぞめえもん」という人物をおさえてほしい。

彼女は藤原道長の正妻「倫子りんし」とその娘「彰子しょうし」に仕えていたんだ。

「彰子」は「一条天皇」の中宮だね。

そのため赤染衛門は、彰子にお仕えした和泉式部や紫式部や、もう一人の中宮(皇后宮)「定子ていし」にお仕えしていた清少納言とも交流があった。

そいつあすげえ。

教科書太字レベルの乱れ打ちだ。

この赤染衛門の夫が「大江匡衡まさひら」という学者さん。藤原道長に重用された超一流の漢学者だ。

尾張国の国司として、赴任先に学校をつくったり、水路を整備して農民たちの争いをなくしたり、評判の高い受領ずりょう(実際に任地に赴いた国司)だった。

悪名高い受領ずりょうばかりではないんだな。

この大江匡衡まさひら曾孫ひまごが「大江匡房まさふさ」というスーパー学者。

『十訓抄』には、こんな話がある。

関白藤原頼通よりみちが平等院を創建のために宇治を訪問したとき、「大門が北になってしまうのが都合が悪いと思うんだけど、他に門が北を向いている寺院はあるのかな?」と右大臣源師房もろふさに質問したら、「自分にはわからないけど、大江家で元服したばかりの匡房ならわかるかもしれない」という。

そこで匡房を呼んで聞いたところ、「天竺(インド)の那蘭陀寺ならんだじ震旦しんだん(中国)の西明寺さいみょうじ本朝ほんちょう(日本)の六波羅蜜寺ろくはらみつじは門が北に向いています」と即答したらしい。

記憶力すげえ。

匡房まさふさは兵法にもくわしくて、源義家よしいえが弟子になったこともある。

義家は、「鳥が列を乱して飛び立つのは、近くに伏兵がいるからだ」といった戦場での知識をいろいろ教わるんだね。義家は匡房に教わった兵法を活用して、「後三年の役」で勝利する。

とにかく匡房はずばぬけて頭がよくて、堀河天皇が即位して、白河上皇の院政がはじまるころには、従三位じゅさんみに叙せられて公卿くぎょうになる。その後も順調に出世して、正二位しょうにいになる。

天皇のお住まいに出入りできるという、なかなかなれない身分だな。

この大江匡房の曾孫ひまごが、「大江広元ひろもと」。

なんと、立派な学者の一族であったか。

大江広元
大江広元

並々ならぬプレッシャー。

でも、広元が「大江」と名乗り始めるのはだいぶ先のこと。

若い時はずっと「中原広元」と名乗っているんだ。

記録が複数あって、血脈は「大江家」であって、中原家に養子で入ったという説と、逆に、血脈は「中原家」であって、「大江家」に養子で入ったという説がある。

この「中原家」でいうと兄にあたるのが中原親能ちかよし

本当のお兄さんか、義理のお兄さんかはわからないということか。

親能ちかよしは幼い時に相模さがみ国に住んでいたことがあって、伊豆いず国にいた頼朝よりともと見知った仲だったらしい。

親能は、頼朝挙兵時に京にいたはずなんだけど、いつのまにか頼朝に合流していて、側近となっていた。主に都の公家たちとの交渉役として大活躍し、二代頼家のときには「十三人の合議制」の一人になっている。

この中原親能の弟という縁もあって、大江広元も鎌倉に下って、頼朝の側近として活躍するようになる。学問に秀でていることを生かして、公文所の別当となり、のちに政所と改称した際に初代別当となる。

ということは、広元は、大江家であればスーパー学者の家系だし、中原家であれば、頼朝の寵臣の弟ということか。もうどっちが実家でもいいじゃないか。

大江広元
大江広元

わしとしては、中原家に育ててもらった恩義はあるのだが、大江家が衰退してしまうのはしのびないので、実父の姓に改称して、大江広元としたんだ。

さて、そんな大江広元の四男「季光すえみつ」は、相模さがみ毛利もうり荘(現在の神奈川県厚木市)を領したことから、「毛利季光」と名乗る。

のちの合戦に負けて、毛利荘は失ってしまうんだけど、越後えちご国と安芸あき国の所領だけは残してもらえるんだ。

その安芸国吉田荘において、毛利家12代当主となるのが「毛利元就もとなり」だ。

戦国時代のビッグネーム!!

大江広元
大江広元

子孫すげえ。

毛利家は、大江広元の血脈であることを自覚しているからか、「広」や「元」を名前に付ける当主が多いのだ。

季光-経光-時親-元春-広房-光房-煕元-豊元-弘元-興元-幸松丸-元就-隆元-輝元-秀就-綱広-吉就-吉広-吉元-宗広-重就-治親-斉房-斉熙-斉元-斉広-敬親

本当だ。「広」と「元」が多いな。

大江広元
大江広元

ちょっ、まっ、照れる。

ここに挙げたのは当主の名前だけど、元就の時代には、家臣の命名に携わる際、完全に従属した者には「元」の字を与え、それに次ぐ場合には「広」の字を与えるという慣例もあったようだね。要するに「元」と「広」は、毛利氏にとっては非常に重要な文字であった。

その毛利家の14代当主「毛利輝元」が築城した城が「広島城」で、これが「広島県」の由来になっている。

ということは、広島の「広」は、もとをただせば「大江広元」の「広」なのか・・・。

そういうことになる。

大江広元
大江広元

てことは、広島カープの「広」もわしの「広」なの?

理論上そうなる。

戦国時代のスターや、広島県の名称が、大江広元おおえのひろもとの関係だったとはな・・・。

時代をさかのぼれば、平安時代のスター級の女流文学者も、大江広元の関係者だ。

大江広元すげえ。

大江広元
大江広元

衝撃を受けた。