大江広元については、兄である中原親能とセットでおさえてほしい。
中原親能の紹介はこちら。
中原親能も大江広元も、「頭いい!」って感じなんだな。
大江広元については、時代をさかのぼって、平安時代中期の「赤染衛門」という人物をおさえてほしい。
彼女は藤原道長の正妻「倫子」とその娘「彰子」に仕えていたんだ。
「彰子」は「一条天皇」の中宮だね。
そのため赤染衛門は、彰子にお仕えした和泉式部や紫式部や、もう一人の中宮(皇后宮)「定子」にお仕えしていた清少納言とも交流があった。
そいつあすげえ。
教科書太字レベルの乱れ打ちだ。
この赤染衛門の夫が「大江匡衡」という学者さん。藤原道長に重用された超一流の漢学者だ。
尾張国の国司として、赴任先に学校をつくったり、水路を整備して農民たちの争いをなくしたり、評判の高い受領(実際に任地に赴いた国司)だった。
悪名高い受領ばかりではないんだな。
この大江匡衡の曾孫が「大江匡房」というスーパー学者。
『十訓抄』には、こんな話がある。
関白藤原頼通が平等院を創建のために宇治を訪問したとき、「大門が北になってしまうのが都合が悪いと思うんだけど、他に門が北を向いている寺院はあるのかな?」と右大臣源師房に質問したら、「自分にはわからないけど、大江家で元服したばかりの匡房ならわかるかもしれない」という。
そこで匡房を呼んで聞いたところ、「天竺(インド)の那蘭陀寺、震旦(中国)の西明寺、本朝(日本)の六波羅蜜寺は門が北に向いています」と即答したらしい。
記憶力すげえ。
匡房は兵法にもくわしくて、源義家が弟子になったこともある。
義家は、「鳥が列を乱して飛び立つのは、近くに伏兵がいるからだ」といった戦場での知識をいろいろ教わるんだね。義家は匡房に教わった兵法を活用して、「後三年の役」で勝利する。
とにかく匡房はずばぬけて頭がよくて、堀河天皇が即位して、白河上皇の院政がはじまるころには、従三位に叙せられて公卿になる。その後も順調に出世して、正二位になる。
天皇のお住まいに出入りできるという、なかなかなれない身分だな。
この大江匡房の曾孫が、「大江広元」。
なんと、立派な学者の一族であったか。
並々ならぬプレッシャー。
でも、広元が「大江」と名乗り始めるのはだいぶ先のこと。
若い時はずっと「中原広元」と名乗っているんだ。
記録が複数あって、血脈は「大江家」であって、中原家に養子で入ったという説と、逆に、血脈は「中原家」であって、「大江家」に養子で入ったという説がある。
この「中原家」でいうと兄にあたるのが中原親能。
本当のお兄さんか、義理のお兄さんかはわからないということか。
親能は幼い時に相模国に住んでいたことがあって、伊豆国にいた頼朝と見知った仲だったらしい。
親能は、頼朝挙兵時に京にいたはずなんだけど、いつのまにか頼朝に合流していて、側近となっていた。主に都の公家たちとの交渉役として大活躍し、二代頼家のときには「十三人の合議制」の一人になっている。
この中原親能の弟という縁もあって、大江広元も鎌倉に下って、頼朝の側近として活躍するようになる。学問に秀でていることを生かして、公文所の別当となり、のちに政所と改称した際に初代別当となる。
ということは、広元は、大江家であればスーパー学者の家系だし、中原家であれば、頼朝の寵臣の弟ということか。もうどっちが実家でもいいじゃないか。
わしとしては、中原家に育ててもらった恩義はあるのだが、大江家が衰退してしまうのはしのびないので、実父の姓に改称して、大江広元としたんだ。
さて、そんな大江広元の四男「季光」は、相模国毛利荘(現在の神奈川県厚木市)を領したことから、「毛利季光」と名乗る。
のちの合戦に負けて、毛利荘は失ってしまうんだけど、越後国と安芸国の所領だけは残してもらえるんだ。
その安芸国吉田荘において、毛利家12代当主となるのが「毛利元就」だ。
戦国時代のビッグネーム!!
子孫すげえ。
毛利家は、大江広元の血脈であることを自覚しているからか、「広」や「元」を名前に付ける当主が多いのだ。
季光-経光-時親-元春-広房-光房-煕元-豊元-弘元-興元-幸松丸-元就-隆元-輝元-秀就-綱広-吉就-吉広-吉元-宗広-重就-治親-斉房-斉熙-斉元-斉広-敬親
本当だ。「広」と「元」が多いな。
ちょっ、まっ、照れる。
ここに挙げたのは当主の名前だけど、元就の時代には、家臣の命名に携わる際、完全に従属した者には「元」の字を与え、それに次ぐ場合には「広」の字を与えるという慣例もあったようだね。要するに「元」と「広」は、毛利氏にとっては非常に重要な文字であった。
その毛利家の14代当主「毛利輝元」が築城した城が「広島城」で、これが「広島県」の由来になっている。
ということは、広島の「広」は、もとをただせば「大江広元」の「広」なのか・・・。
そういうことになる。
てことは、広島カープの「広」もわしの「広」なの?
理論上そうなる。
戦国時代のスターや、広島県の名称が、大江広元の関係だったとはな・・・。
時代をさかのぼれば、平安時代のスター級の女流文学者も、大江広元の関係者だ。
大江広元すげえ。
衝撃を受けた。