『徒然草』より、「あだし野の露消ゆるときなく」の現代語訳です。
あだし野の露消ゆるときなく、
あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ。
あだし野の露が消える時がなく、鳥部山の煙が立ち去らないように、(人がこの世に)終わりまで住み続ける習わしであるのならば、どんなにものの情趣もないことだろう。この世は無常であることが、すばらしいのだ。
命あるものを見るに、
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏のせみの春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世に、醜き姿を待ち得て何かはせん。命長ければ恥多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。
命があるものを見ると、人間ほど長生きするものはない。かげろうが(朝生まれて)夕方を待たないで(死に)、夏のせみが春も秋も知らない(で死ぬ)こともあるのだよ。しみじみと一年を暮らすだけでさえも、この上なくのどかなものだよ。(それなのに、人生に)満足せず、(命を)惜しいと思うなら、たとえ千年を生きるとしても、一夜の夢のような(はかない)気持ちがするだろう。いつまでも住み続けることないこの世に、醜い姿を待ち得て【老いた姿となって】、どうしようというのか、いや、どうにもならない。命が長いと恥も多い。長くても四十歳に足りないくらいで死ぬとしたら、見苦しくないだろう。
そのほど過ぎぬれば、~
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交じらはんことを思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、栄行く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
その年ごろを過ぎてしまうと、(自分の)容姿を恥じる気持ちもなく、人前に出て交流するようなことを思い、夕陽のように【晩年の身で】子や孫をかわいがり、(子孫が)栄えてゆく将来を見るまでの命を期待し、ひたすら世(の利益)を貪欲に欲しがる心だけが深く、ものの情趣もわからなくなっていくのは、情けないことだ。