
『徒然草』より「仁和寺にある法師」です。
本文
仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとりかちより詣でけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さてかたへの人にあひて、「年頃思ひつることはたし 侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけむ。「年頃思ひつることはたし 侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。
徒然草
現代語訳
仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとりかちより詣でけり。
仁和寺にある法師が、年をとるまで石清水(八幡宮)を拝まなかったので、残念に思われて、ある時思い立って、ただ一人徒歩で参詣した。
極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
極楽寺、高良神社などを拝んで、(石清水八幡宮は)これだけと納得して帰った。
さてかたへの人にあひて、「年頃思ひつることはたし 侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。
さて(仁和寺にある法師は)仲間に会って、「長年思っていたことを、果たしました。聞いていた以上に、尊くいらっしゃった。
そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけむ。「年頃思ひつることはたし 侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。
それにしても、お参りに来た人それぞれが山へ登ったのは、何事があったのだろうか。知りたいと思ったけれど、神へお参りすることが本来の目的であると思って、山までは見ない」と言った。
少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。
ちょっとしたことでも、案内人はあってほしいことである。