関白殿、黒戸より出でさせたまふとて 『枕草子』 現代語訳

『枕草子』より、「関白殿、黒戸より出でさせたまふとて」の現代語訳です。

ここでの「関白殿」は、「藤原道隆」です。

「藤原道兼」と「時姫」のあいだには、

道隆
超子(冷泉天皇の女御/三条天皇の母)
道兼
詮子(円融天皇の女御/一条天皇の母)
道長

という兄弟姉妹がおりますが、「道隆」はその長兄になります。

これまたすごい家族だね。

そして、この場面での「権大納言」は「藤原伊周」です。

「道隆」の三男ですが、嫡男として出世していった人物です。

一条天皇の中宮「定子」のお兄さんですね。

この場面では「権大納言」ですが、このあとまもなく「道長」をさしおいて「内大臣」になります。

そして、文中での「宮の大夫殿」が「道長」になります。「宮の大夫」というのは、「中宮職」という「中宮に関わるお仕事をする部署」の長官のことです。

「道隆」からすれば、自分は「関白」で、「弟(道長)」「息子(伊周)」も権大納言で、「娘(定子)」は一条天皇の中宮であって、まさに無双状態だね。

この清涼殿の黒戸からお帰りになるシーンでは、「藤壺(飛香舎)の塀」から「登華殿」の前まで「上達部クラスの貴族がひざまずいて並んだ」という描写がありますから、まあすごかったのでしょうね。

関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて、~

関白殿、黒戸より出でさせたまふとて、女房のひまなくさぶらふを、「あないみじのおもとたちや。翁をいかに笑ひたまふらむ。」とて、分け出でさせたまへば、戸口近き人々、色々の袖口して、御簾引き上げたるに、権大納言の、御沓おんくつ取りて、はかせたてまつりたまふ。いとものものしく清げによそほしげに、下襲したがさねしり長く引き、所狭くてさぶらひたまふ。「あなめでた。大納言ばかりに、沓取らせたてまつりたまふよ。」と見ゆ。

関白殿【藤原道隆】黒戸からお出になるということで、女房がすきまもなくお控えしているのを、(道隆は)「ああすばらしいみなさん【女性たち】よ。この老人をどれほどお笑いになっているだろう。」と言って、(お控えする女房たちを)かき分けてお出になるので、戸口に近い女房たちが、色とりどりの袖口を見せて、御簾を引き上げていると、権大納言【藤原伊周】が(道隆の)お沓を取って、お履かせ申し上げなさる。たいそう立派できれいに装いをこらして、下襲の裾を長く引き、(場所が狭いと感じさせるほど)堂々とお控えしていらっしゃる。「ああすばらしい。大納言ほどの人に、沓を履かせ申し上げなさるよ。」と思われる。

「黒戸」とは、清涼殿の北側にある細長い部屋です。

『徒然草』によれば、光孝天皇が自炊をする場所だったとされていまして、薪による煤で戸が黒くなっていたから「黒戸」という、とされています。いつからか持仏堂のような仏間にしていたようです。清涼殿を黒戸から抜けるとすぐ北側に「弘徽殿」があり、さらに北側に「登華殿」があります。「弘徽殿」の西側に「藤壺(飛香舎)」があります。

下襲したがさね」とは、「ほう(束帯や衣冠の上着)」の下に着る垂領たりくびの衣類です。身体の前側は腰くらいの丈で、身体の後ろ側は、官位によって長さが決まっていました。

大納言クラスだと六尺(およそ180㎝)くらいありまして、歩くときは太刀にひっかけたり、人に持たせたりしました。

山の井の大納言、~

山の井の大納言、その御次々の、さならぬ人々、黒き物を引き散らしたるやうに、藤壺の塀のもとより、登花殿とうかでんの前まで居並いなみたるに、細やかになまめかしうて、御佩刀はかしなど引きつくろはせたまひ、やすらはせたまふに、

山の井の大納言【藤原道頼】や、それにお続きになる(官位の)人々で、(伊周・道頼の)血縁ではない人々が、黒い物を引き散らしたように、藤壺の塀のもとから、登花殿の前までひざまずいて並んでいるところに、(道隆は)すらりとして上品で、御佩刀【貴人が腰につける太刀】(の向き)などをお直しになり、少し立ち止まっていらっしゃるところに、

「山の井の大納言」は「藤原道頼」のことです。

「道頼」は、「道隆」の長男ですが、母の関係から三男の「伊周」のほうが先に昇進しました。

「伊周」が「内大臣」になる際に、道頼は「権大納言」になりますので、この場面ではまだ「権中納言」です。

「黒き物を引き散らしたるやうに」というのは、実際には「黒いほう(上着)を着た貴族たちがたくさんいる」ことを示しています。貴族の正装では、四位以上は黒と決まっているので、ここには「四位以上の並々ならぬ人々がたくさんいる」ことになります。清涼殿の付近にいるわけですから、ほとんどは三位以上の上達部でしょう。

「御佩刀はかし」は、太刀のことです。宮中で太刀をはいているのは、宣旨によって許されたあかしなので、周囲からすると「大人物」の象徴になります。

宮の大夫殿は、~

宮の大夫殿は、戸の前に立たせたまへれば、居させたまふまじきなめりと思ふほどに、少し歩み出でさせたまへば、ふと居させたまへりしこそ、なほいかばかりの昔の御行ひのほどにかと見たてまつりしこそ、いみじかりしか。

宮の大夫殿【藤原道長】は、(そもそも)戸の前にお立ちになっていたので、(これから)ひざまずきなさることはあるまいと見える、と思ううちに、(道隆が)少し歩き出されると、不意にひざまずきなさったことは、やはり(道隆の)どれほどの前世での御行いのほどであろうか【(道隆は)どれほど前世で善行をお積みになったのであろうか】と拝見したのは、すばらしいことだった。

「宮の大夫殿」である「道長」は、このとき「従二位・権大納言」であり、他の上達部とは一線を画しています。

しかも「道長」は、安易に周囲に同調して「みんながひざまずいているから俺も・・・」という性格の人ではありません。

また、他の上達部がすでにひざまずいているところで、「道長」は戸の近くで立っているわけですから、「あ、やっぱり道長ほどの人はひざまずくまではしないのね。弟でもあるしね」と、その時点では思えます。

ところが道隆が歩き出すと、道長がささっとひざまずいたのです。

こういう流れに接して、「道長ほどの人がひざまずくとは、道隆ってやっぱりすごい」という感想にむすびついていくわけです。

中納言の君の、~

中納言の君の、忌日とて、くすしがり行ひたまひしを、「賜へ、その数珠、しばし。行ひしてめでたき身にならむと借る。」とて、集りて笑へど、なほ、いとこそめでたけれ。御前に聞こしめして、「仏になりたらむこそは、これよりはまさらめ」とて、打ち笑ませ給へるを、まためでたくなりてぞ見たてまつる。

中納言の君が、(道隆の)命日ということで、神妙に勤行をしていらっしゃるのを、(私が)「お貸しください。その数珠を、しばらく。勤行をして(来世に)すばらしい身の上になろうと(思って)借りる。」といって、(女房たちが)集まって笑うけれど、やはり、(道隆の尊さは)たいそうすばらしい。御前【中宮定子】がお聞きになって、「仏になったとしたら、これより【関白より】優れているだろう。」と言って、お笑いになっているのを、またすばらしく思って見申し上げる。

「中納言の君」は、中宮定子に仕える古参の女房です。

道隆の叔父の娘さんであり、上臈の女房です。

下臈の女房である清少納言が「数珠を貸して」などと言い、ほかの女房たちも集まってきて笑っており、中宮定子も「仏になったとしたら関白以上の昇進よ」みたいな冗談を言って笑っています。

道隆の命日のお勤めのシーンですから、「こんなに和気あいあいとしていていいの?」と思えますが、「こんなに笑ってふざけているけれど、それでもやはり道隆の存在感はたいへんすばらしい」というような断りが途中に書いてありますね。

大夫殿の居させたまへるを、~

大夫殿の居させたまへるを、返す返す聞こゆれば、「例の思ひ人。」と笑はせたまひし、まいて、この後の御ありさまを見たてまつらせたまはましかば、ことわりと思しめされなまし。

大夫殿【道長】がひざまずきなさったことを、繰り返し申し上げると、(定子は)「いつものひいきの人。」とお笑いになったが、まして、この後の(道長が権勢をふるう)御有様を(定子が)見申し上げなさったとしたら、(私がこのように言うのも)もっともなことだときっとお思いになっただろうに。

「思ひ人」は、「思ふ人」とする写本もあります。

一見すると、清少納言がシンプルに道長を推しているように見えますが、この章の一連の流れを考えると、「道長がひざまずくほど道隆がすごかった」ということを言いたくて道長をひきあいに出していると考えられます。

この最後の記述から、この章は定子も亡くなったあとに、道長が権勢をふるっているタイミングで書かれていることになります。道長と伊周の権力争いの末、伊周は敗れ去り、定子は「父・道隆」「兄・伊周」という後ろ盾を失い、落飾して二条宮に下がります。すでに一条天皇の子を懐妊していた定子は脩子内親王をもうけ、再び宮中に迎えられたものの、道長の娘彰子が中宮に冊立された年の年末に亡くなります。

清少納言と道長の関係性は未詳ですが、中宮定子に仕え、ことの顛末を見届けてきた清少納言が、定子亡きあとにどういう気持ちでこれを書いたのでしょうか。