今は昔、~
今は昔、紫式部、上東門院に歌詠み優の者にてさぶらふに、大斎院より、春つ方、「つれづれにさぶらふに、さりぬべき物語や候ふ」と尋ね申させ給ひければ、御草子どもとり出ださせ給ひて、「いづれをか参らすべき」など、選り出ださせ給ふに、紫式部、「みな目慣れてさぶらふに、新しくつくりて参らせさせ給へかし」と申しければ、「さらばつくれかし」と仰せられければ、源氏は作りて参らせたりけるとぞ。
今は昔【今となっては昔のことだが】、紫式部が、上東門院【中宮彰子】に、歌を詠むのが優れた者としてお仕えするときに、大斎院【選子内親王】から、春のころ、「退屈でございますので、(こんなときに)ふさわしい物語はございますか」とお尋ね申し上げなさったので、(上東門院は)物語の書物などを取り出しなさって、「どれを差し上げるのがよいか」などと、お選びになるときに、紫式部は、「すべて見慣れてございますので、(物語を)新しくつくって差し上げなされよ」と申し上げたところ、「そうであるなら(あなたが)作りなさいよ」とおっしゃったので、『源氏物語』を作って差し上げたということだ。
いよいよ心ばせすぐれて、~
いよいよ心ばせすぐれて、めでたきものにてさぶらふほどに、伊勢大輔参りぬ。それも歌詠みの筋なれば、殿いみじうもてなさせ給ふ。奈良より年に一度、八重桜を折りて持て参るを、紫式部、取り次ぎて参らせなど、歌詠みけるに、式部、「今年は大輔に譲り候はむ」とて、譲りければ、取り次ぎて参らするに、殿、「遅し遅し」と仰せらるる御声につきて、
いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に にほひぬるかな
「取り次ぎつる程もなかりつるに、いつの間に思ひつづけけむ」と、人も思ふ、殿もおぼしめしたり。
(紫式部は)ますます心くばりが優れて、すばらしい女房としてお仕えするうちに、伊勢大輔が(女房として上東門院ともとに)参上した。それ【伊勢大輔】も歌詠みの家系であるので、殿【藤原道長(上東門院の父)】はたいそう大切に扱いなさる。奈良から年に一度、八重桜を折って持って参上するのを、紫式部が、取り次いで(上東門院に)差し上げるなど(してその際に)、(毎年)歌を詠んだが、(紫)式部は、「今年は大輔に(その役目を)譲りましょう」として、譲ったので、(伊勢大輔が)取り次いで差し上げるときに、殿【道長】が、「(歌を詠むのが)遅い遅い」とおっしゃるお声につづいて、
遠い昔の、奈良の都の八重桜が、今日はこの宮中で九重に美しく咲いたことよ
「取り次いだ時間もなかったのに、いつの間に思いついたのだろう」と、(周囲の)人も思い、殿【道長】もお思いになった。

「九重」は「宮中」を意味します。
昔の中国の王城が、9つの門で守られていた構造に由来するようですね。

ああ~。
これは「八重桜」ですけれども「九重」に咲いておりますねえ・・・ってうまいこと言ったんだな。
めでたくて候ふほどに、~
めでたくて候ふほどに、致仕の中納言の子の、越前守とて、いみじうやさしかりける人の妻に成りにけり。逢ひ始めたりける頃、石山に籠りて音せざりければ、つかはしける、
みるめこそ あふみの海に かたからめ 吹きだに通へ 志賀の浦風
と詠みてやりたりけるより、いとど歌おぼえまさりにけり。
(伊勢大輔は)すばらしくおりますうちに、官職を退いた中納言の子【高階成順】が、越前守として、たいそう慎み深かった人の妻になった。逢い始めたころ、(成順が)石山寺に籠って連絡がなかったので、送った歌は、
海藻は(淡水の)近江の海では採るのがむずかしいだろうが、せめて吹き通るだけでもしてほしい。志賀の浦からの風。
【近江の石山寺に籠っているから姿を見ることはむずかしいが、せめてあなたからの風の便りだけでもこないものかな】
と詠んで、送ったことにより、いよいよ歌の評判がすぐれていった。

海松布(みるめ)は海藻のことです。
近江の海というのは琵琶湖のことですが、琵琶湖は淡水の湖なので、ワカメやコンブみたいな海藻は存在しないのですね。
夫である成順が籠っている「石山寺」は近江にありますから、伊勢大輔は、「近江の湖では海松布(みるめ)が取りにくいよね・・・」という表現で、「石山寺に籠っているあなたの姿を見ることはできないよね・・・」と言っているのですね。

それで「志賀からの風だけでも吹いてほしいなあ」っていうことで、「風の便りくらいくれないのかなあ」って言っているわけか。
まことに子孫栄えて、~
まことに子孫栄へて、六条の大弐、堀河の大弐など申しける人びと、この伊勢大輔の孫なりけり。白河院は曾孫おはしましけり。一の宮と申しける折、参りて見まゐらせけるに、「鏡を見よ」とて、たびたりけるに、たまはりて、
君見れば ちりもくもらで 万代の よはひをのみも ます鏡かな
御返し、大夫殿、宮の御をぢにおはします、
曇りなき 鏡の光 ますますも 照らさむかげに かくれざらめや
本当に子孫が繫栄して、六条の大弐、堀河の大弐などと申し上げる人々は、この伊勢大輔の孫であった。白河院はひ孫でいらっしゃった。(白河院が)一の宮と申し上げた折、(伊勢大輔が)参上してお会い申し上げたところ、(白河院が)「鏡を見よ」と、お与えになったのを、(伊勢大輔は)いただいて、
一の宮を見るとすこしも曇らないで、これから万代の年齢が続くことを映す鏡だなあ
ご返歌を、一の宮のおじでいらっしゃる大夫殿が、
曇りのない鏡の光【一の宮の威光】がますます(世を)照らすような、その光の恩恵を受けないことがあろうか、いや受けるはずだ。

「かげ」は、現代語では「シャドー(光によってできる黒い部分)」を意味することが多いですけれども、古文では「光そのもの」や「光によって生じるもの」を広く意味します。
そのため、「物陰(見えていない部分)」のほうを意味するよりも、「光・姿・形」を意味することが多いです。
現代語でも「月影」とか「人影」とかいう場合、「光」や「かたち」のほうの意味で用いられています。
ここでの「かげにかくる」という表現は、「光が照らすエリアにはいる」という意味合いです。

白河院の発する光が照らすエリアに入らないことがあるか、いや入る!
と言っているわけだな。

「かげ」はそもそも「光によって生じるもの」を意味しますので、「恩恵」という意味でも使います。
この歌についても、「白河院の神々しい力の恩恵を受けないことがあろうか、いや、受けるに違いない」という意味で解釈できますね。

