ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (在原業平朝臣)

ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは

和歌 (百人一首17)

ちはやぶる 神代かみよも聞かず 竜田川たつたがは からくれなゐに みづくくるとは

在原業平朝臣 『古今和歌集』

歌意

不思議なことが多かった神代の昔にも、これほどのことは聞いたことがない。竜田川に、紅葉したもみじが敷かれ、水面をくくり染めにしているとは。

作者

作者は「在原業平ありわらのなりひら」です。

『伊勢物語』の「男」のモデルと言われていますね。

お父さんは「阿保あぼ親王」で、おじいちゃんは「平城へいぜい天皇」です。

在原行平ありわらのゆきひらの異母弟になるのだな。

そうです。

「たち別れ~(百人一首16)」の作者ですね。

16番と17番は兄弟の並びなんだね。

業平の歌は『古今和歌集』の「詞書」に、「二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢ流れたるかたをかけりけるを題にてよめる」とあります。

「二条の后が皇太子の母と呼ばれていた頃、屏風絵に、竜田川に紅葉が流れている様子を描いていたものを題にして詠んだ」ということですね。

屏風絵を見て詠んだわけだな。

ちなみに詞書にある「二条の后」は、清和天皇の后である「藤原高子たかいこ」のことです。

じゃあ「皇太子」は、のちの「陽成院」ことだね。

高子と業平はかつて恋仲にあったとされまして、「陽成天皇の父は業平だったのではないか」という説もあるくらいです。

『伊勢物語』の「芥川」は、業平が高子を連れ出して、高子の兄(藤原基経)に取り返されるエピソードだと言われています。

物語としては「女が鬼に食われた」ということになっているけど、「業平が連れ出した高子を、兄が奪い返した」ということなんだね。

その「高子」の御屏風を見て、「業平」がこんな歌を詠んでいるわけですから、深読みすれば、ラブレター的な要素があるでしょうね。

ああ~。

「紅葉したもみじで真っ赤に染まる竜田川」が、「燃え上がっている恋心」を暗示しているということだな。

少なくとも当事者同士はそんなふうに受け止めるのではないでしょうか。

ポイント

ちはやぶる

もとは「逸早いちはや」「振る」であったといわれ、のちに「ちはやぶる」という枕詞として定着したようです。「神」や「宇治」に係ります。

ここでは「神代」に係る「枕詞」となっていますね。

「枕詞」は訳さなくていいのですが、「ちはやぶる」の根底には、「神々のものすごいふるまい」としての意味合いがありますから、「勢いがいちじるしい」とか「人智を超えて不思議である」など、文脈にそって訳補してもいいですね。

神代も聞かず

「神代」は「神々の時代」のことです。

『古事記』に出てくるような時代のことですね。

「神々の時代のことであっても聞いたことがない」ということです。

竜田川

奈良県と大阪府の県境にある「生駒いこま山」から南側に流れる川です。

いまでも紅葉の名所として知られています。

「竜田川」が「水面」という布地に「からくれなゐ」の「くくり染め」をしたんだぞ、っていう歌なのかな。

はい。

または、「超自然的な何か」が「竜田川の水面」に「からくれなゐ」の「くくり染め」をしたんだぞ、と解釈することもできます。

いずれにしても「擬人法」ですね。

からくれなゐに

「唐紅(韓紅)」であり、「美しい深紅」を意味します。

「から」は中国のことですが、そこからの渡来品は基本的にすばらしいものですよね。目新しくて興味深いから日本に持ち帰るわけです。

そういう経緯で、「唐紙」「唐衣」などという場合、直訳すれば「渡来の紙」とか「大陸風の着物」といったことなんですが、「上質な紙」とか「美しい着物」といったように、「よいもの」として訳されることも多いです。

水くくるとは

「括る(くくる)」は、「束ねる」という意味の動詞ですが、「くくり染め」を意味することもあります。

「染め残したいところを糸で括って、その部分以外を染液につけて染める」という技法です。

ここでは「水」を「布」のようにみなして、「深紅のもみじ」という染料により「くくり染め」にされている、ということになります。

「紅葉の下を水がくぐっている」という解釈もありますが、それだと「神代も聞かず」とまではいえないので、やはり「くくり染め」と考えるのが自然だと思います。

なお、文構造としては、「水くくるとは ⇒ 聞かず」という修飾関係になるので、「倒置法」になります。