能登殿の最期 『平家物語』 現代語訳

『平家物語』より、「能登殿の最期(のとどののさいご)」の現代語訳です。

「能登殿」は「平教経のりつね」のことです。お父さんは「平教盛のりもり」(清盛の異母弟)です。

本文に登場する「新中納言」は「平知盛」のことです。お父さんは「平清盛」です。

「判官」は「源義経」のことです。義経は後白河法皇から、左衛門判官さえもんのじょうの任官を受けておりまして、ここでは「判官」と呼ばれています。「はんがん」と音読しますが、この義経の呼称にかんしては、「ほうがん」と読むのが一般的です。

およそ能登守教経の矢先にまはる者こそなかりけれ。

およそ能登守教経のとのかみのりつねの矢先にまはる者こそなかりけれ。矢種のあるほど射尽くして、今日けふを最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に、唐綾縅からあやをどしの鎧着て、厳物いかもの作りの大太刀抜き、白柄の大長刀の鞘をはづし、左右に持つてなぎまはりたまふに、おもてを合はする者ぞなき。多くの者ども討たれにけり。

総じて能登守教経【平教経】の矢面に立ちまわる者はいなかった。手持ちの矢のあるかぎりを射尽くして、今日を最後とお思いになったのだろうか、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧を着て、厳物作り【いかめしく立派な作りの】大太刀を抜き、白木の柄の大長刀の鞘をはずし、左右の手に持って横に払ってまわりなさると、顔をあわせる者はいない。(源氏の)多くの者たちが討たれた。

新中納言、使者を立てて、~

新中納言、使者を立てて、「能登殿、いたう罪な作りたまひそ。さりとてよきかたきか。」とのたまひければ、「さては大将軍たいしやうぐんに組めごさんなれ。」と心得て、打ち物茎短くきみじかに取つて、源氏の船に乗り移り乗り移り、をめき叫んで攻め戦ふ。判官を見知りたまはねば、物具もののぐのよき武者をば判官かと目をかけて、馳せまはる。

新中納言【平知盛】は、(能登殿に)使者を立てて、「能登殿、あまり罪をお作りなさるな。そのようなことをして【そのように懸命に戦うのに】ふさわしい相手か、いや、そうではない。」とおっしゃったので、(能登殿は)「それでは大将軍【源義経】に組めというようだな。」と理解して、太刀や長刀の柄を短く持って、源氏の船に乗り移り乗り移り、大声で叫んで攻め戦う。(能登殿は)判官【義経】をご存知でいらっしゃらないので、武具の立派な武士を判官【義経】かと目をつけて、(舟から舟へ)駆けまわる。

判官も先に心得て、~

判官も先に心得て、表に立つやうにはしけれども、とかくちがひて、能登殿には組まれず。されどもいかがしたりけん、判官の舟に乗り当たつて、あはやと目をかけて飛んでかかるに、判官かなはじとや思はれけん、長刀脇にかい挟み、味方の舟の二丈ばかり退いたりけるに、ゆらりと飛び乗りたまひぬ。能登殿は、早業や劣られたりけん、やがて続いても飛びたまはず。

判官【義経】も(能登殿に狙われていることを)すでに理解して、正面に立つようにしたけれども、あれこれと行き違って、能登殿とはお組みにならない。しかしどうしたのであろうか、(能登殿の舟が)判官【義経】の舟に乗り当たって、やあっと目をつけて飛んでかかると、判官【義経】は(能登殿に)敵わないだろうとお思いになったのだろうか、長刀を脇に挟み、味方の舟で二丈【およそ6m】ほど離れていたものに、ゆらりと飛び乗りなさった。能登殿は、(このような)早業は(義経に)劣っていたのだろうか、すぐに続いてもお飛びにならない。

今はかうと思はれければ、~

今はかうと思はれければ、太刀・長刀海へ投げ入れ、甲も脱いで捨てられけり。鎧の草摺くさずりかなぐり捨て、胴ばかり着て、大童おほわらはになり、大手を広げて立たれたり。およそあたりを払つてぞ見えたりける。恐ろしなんどもおろかなり。能登殿、大音声をあげて、「われと思はん者どもは、寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下つて、頼朝に会うて、ものひとこと言はんと思ふぞ。寄れや、寄れ。」とのたまへども、寄る者一人もなかりけり。

(能登殿は)もうこれまでとお思いになったので、太刀・長刀を海へ投げ入れ、甲も脱いでお捨てになった。鎧の草摺りを荒々しく引きちぎって、胴だけを着て、ざんばら髪【激しい戦いによって髪の結びがほどけ、童のようになった髪型】になり、大手を広げてお立ちになった。(その姿は)総じて周り(の者)を寄せつけないように見えていた。恐ろしいなどという言葉では言い尽くせない。能登殿は、大声をあげて、「我こそはと思うような者は、近寄って教経【私】と組んで生け捕りにせよ。鎌倉に下って、頼朝に会って、何か一言言おうと思うぞ。寄ってこい、寄ってこい。」とおっしゃるが、近寄る者は一人もいなかった。

ここに、土佐国の住人、~

ここに、土佐国の住人、安芸郷を知行しける安芸大領実康さねやすが子に、安芸太郎実光さねみつとて、三十人が力持つたる大力のかうの者あり。我にちつとも劣らぬ郎等一人、弟の次郎も普通には優れたるしたたか者なり。安芸太郎、能登殿を見奉つて申しけるは、「いかに猛うましますとも、われら三人取りついたらんに、たとひたけ十丈の鬼なりとも、などか従へざるべき。」とて、主従三人小舟に乗つて、能登殿の舟に押し並べ、「えい。」と言ひて乗り移り、甲のしころを傾け、太刀を抜いて、一面に打つてかかる。

ここに、土佐国の住人で、安芸郷を支配した安芸大領実康の子に、安芸太郎実光といって、三十人ぶんの力を持っている怪力の武勇にすぐれた者がいる。自分に少しも劣らない家来が一人(いて)、(また)弟の次郎も普通よりは優れている気丈な者である。安芸太郎が、能登殿を見申し上げて申し上げたことには、「どれほど勇猛でいらっしゃっても、我ら三人が組み付いたとしたら、例え背丈が十丈【およそ30m】の鬼であっても、どうして従えられないだろうか、いや従えられるはずだ。」といって、主従三人が小舟に乗って、能登殿の舟に押し並べ、「えい。」と言って乗り移り、兜の錣【首の後ろを守るところ】を傾けて、太刀を抜いて、いっせいに討ってかかる。

能登殿のちつとも騒ぎたまはず、~

能登殿のちつとも騒ぎたまはず、まつ先に進んだる安芸太郎が郎等を、裾を合はせて、海へどうど蹴入れたまふ。続いて寄る安芸太郎を、弓手の脇に取つてはさみ、弟の次郎をば馬手の脇にかいばさみ、ひと締め締めて、「いざ、うれ、さらばおのれら、死出の山の供せよ。」とて、生年二十六にて、海へつつとぞ入りたまふ。

能登殿は少しもお騒ぎにならず、真っ先に進んだ安芸太郎の家来を、裾と裾がふれあうほど引き寄せて、海にどっと蹴り入れなさる。続いて近寄る安芸太郎を、弓手【左手】の脇に取って挟み、弟の次郎を馬手【右手】の脇に挟み、ひと締め締め上げて、「さあ、お前、それではお前ら、死出の山の供をせよ。」と言って、生年二十六で、海へさっとお入りになる。

新中納言、~

新中納言、「見るべきほどのことは見つ。今は自害せん。」とて、乳母子めのとごの伊賀平内左衛門家長を召して、「いかに、約束はたがふまじきか。」とのたまへば、「子細にや及び候ふ。」と中納言に鎧二領着せ奉り、我が身も鎧二領着て、手を取り組んで海へぞ入りにける。これを見て、侍ども二十余人、後れ奉らじと、手に手を取り組んで、一所に沈みけり。その中に、越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛は、何としてか逃れたりけん、そこをもまた落ちにけり。

新中納言【平知盛】は、「見なければならないことは見た。今は自害しよう。」といって、乳母子の伊賀平内左衛門家長をお呼びになって、「どうであるか、(同じところで死ぬという)約束は違えないだろうか。」とおっしゃると、(家長は)「こまごまと申すに及びましょうか、いや、(何も申すことは)ありません。」と、中納言に鎧を二領着せ申し上げ、自分も鎧を二領着て、手を取り組んで海へ入った。これを見て、(平家の)侍たち二十人余りが、遅れ申し上げまいと、手を取り組んで、同じ場所に沈んだ。その中に、越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛は、どのようにして逃れたのだろうか、そこをもまた落ちのびた。

海上には赤旗・赤印投げ捨て、~

海上には赤旗・赤印投げ捨て、かなぐり捨てたりければ、竜田川のもみぢ葉を嵐の吹き散らしたるがごとし。汀に寄する白波も、薄紅にぞなりにける。主もなきむなしき舟は、潮にひかれ、風に従って、いづくをさすともなく揺られゆくこそ悲しけれ。

海上には(平家の)赤旗・赤印が投げ捨て(てあり)、荒々しく捨ててあったので、竜田川の紅葉の葉を嵐が吹き散らしているようだ。水際にうち寄せる白波も、(斬られた者たちの血で)薄紅色になっていた。(乗るはずの)主人もいない空虚な舟は、潮に引かれ、風に従って、どこを目指すこともなく揺られていくことが悲しい。