このたびは ぬさもとりあへず たむけやま もみぢのにしき かみのまにまに
和歌 (百人一首24)
このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
菅家 『古今和歌集』
歌意
この度の旅は、(あわただしくて)幣を用意することもできない【捧げることもできない】。(その代わりに)手向山の紅葉の錦を(捧げるので)、神の思うままに(お受け取りください)。
作者
作者は「菅家」です。「菅原道真」のことです。
出たぞ。スーパースターが。
『古今和歌集』の詞書には、「朱雀院の奈良におはしましける時に、手向山にて詠める」とあります。
「朱雀院」は「宇多上皇」のことで、在位中は菅原道真を重用しました。退位後に、道真や素性法師などをお供にして、宮滝(奈良県吉野)のほうまで大旅行したのですが、これはその時に詠まれた歌です。
道真は宇多天皇の次代の醍醐天皇にも重用されましたが、この旅行の数年後には、藤原時平の陰謀によって大宰府に左遷されることになります。
じゃあ、この歌はまだ朝廷でブイブイ言っていった時のものなんだね。
ブイブイ言っていたかはわかりませんが、この歌からは、宇多上皇と明るく楽しげに旅行している様子が伝わってきますね。
ポイント
このたびは
「たび」は、「度」と「旅」の「掛詞」です。
ぬさもとりあへず
「ぬさ」は「幣」のことです。「木綿・錦・絹・紙」などを切って、儀礼的な捧げ物としたものです。旅行の際は、これを道中の道祖神に捧げる風習がありました。
七五三のときなどに、神主さんが子どもの頭の近くで降っているやつです。
ああ~。
あのパーティーグッズみたいなやつか。
たいへん失礼なたとえ方ですが、誕生日会のときなどに壁に飾られていてもおかしくない、紙細工のようなやつですね。
その「幣(ぬさ)」を準備することができなかった、と言っていることになります。
準備の時間がなかったんだろうね。
あるいは、幣は用意してきたのだけれども、手向山の紅葉があまりにもすばらしくて、「もうこれを幣(ぬさ)ってことにしようよ」と思って、「持ってこなかったことにした」という説もあります。
ここでいったん結びになりますので、二句切れです。
手向山
「手向山」は、「神に供え物を捧げる山」という意味であり、もともとは固有名詞ではありません。
ただ、現在の奈良県には「手向山」という山があり、その麓に「手向山八幡宮」があります。
ああ~。
もともとは「神に供え物を捧げる山」っていう普通名詞だったけれども、道真が歌に詠んだことによって、「道真が詠んだ手向山はきっとここだよ」っていうことになって、現在では固有名詞化したのかもしれないね。
紅葉の錦
「錦」は「色糸で織りなした織物」のことです。
「紅葉」の赤や黄色の重なりがあまりに美しく、「錦」のように思えたのでしょうね。
こういう表現を「見立て」と言います。
神のまにまに
「随」を「まにま」と読みます。
つまり、「まにまに」というのは「随に」ということであり、現在の言葉でいうなら「ご随意に」ということになります。
「神のご意思のままに」という感じですね。
「神様の思うとおりに受け取ってよ」ということなんだね。
そうですね。
「紅葉の錦」を「幣(ぬさ)」に見立てるのであれば、山一面に大量の「幣」があることになります。
「たくさんあるので好きなだけ取ってくださいよ」といったところでしょうね。
なんか、神様に対してけっこう無礼というか、調子いいよね。
そのあっけらかんとした明るさがこの歌の魅力でしょうね。