世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる (皇太后宮大夫俊成)

よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる

和歌 (百人一首83)

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

皇太后宮大夫俊成 『千載集』

歌意

この世の中よ、つらさから逃れる方法はないのだなあ。思いつめて(世俗からのがれようと)入ったこの山の奥にも、悲しげに鹿が鳴いているようだ。

作者

作者は藤原俊成(としなり・しゅんぜい)です。『千載集』の撰者です。

皇太后大夫というのは、皇太后官職の長官のことです。

俊成の息子にはかの有名な定家がいますね。

息子である定家のみならず、後鳥羽院、寂連、式子内親王など、俊成に歌を教わった人はたくさんいました。

忠度ただのりも、俊成に師事していたんだっけ?

『平家物語』に出てくる「忠度の都落ち」が有名ですね。

平家が朝敵となってしまい、都を追われたときに、忠度は自分がつくった歌を百首くらい俊成にたくすのですね。

ああ~。

俊成は『千載集』に忠度の歌を入れるんだけど、朝敵になってしまった以上名前は出せないから、「詠み人知らず」にしたんだっけ。

そうです。

しみじみとした趣きがある話だなあ。

ポイント

世の中よ

「よ」は「間投助詞」ですね。「呼びかけ」や「詠嘆」で使用されます。

間投助詞というのは、文節のおわりにもつきますから、終助詞のように「結び」につくとは限りません。「よ」「や」「を」などがありますけど、「を」はあんまり見ません。

ここでは「おーい世の中さんよ」と呼びかけているようにも見えますが、個体としての生き物ではないので、「世の中ってやつはなあ・・・」という「詠嘆」でとっておきましょう。

道こそなけれ

「なけれ」は、形容詞「なし」の已然形です。

「こそ」があるので、結びが「已然形」になっています。

「こそー已然形」は、もともとは「逆接強調」という使い方が多くて、前件を強く取り立てて、逆になる後件を書く用法が主流でした。そのため文末用法ではなく、後ろにつながっていく場合、「~けれども、~」「~が、~」というように「逆接」で訳します。

そのとき、言わなくてもわかるような「後ろ」は書かないこともあるのですね。すると「こそー已然形」は「余情効果」を生みます。たとえばここも「道こそなけれ」のあとに「でも、道があってほしかったなあ」という「思い」が含まれているといえます。

平安時代になると、後件を示さずに単純に強調する使い方が増えていきます。そのため「こそー已然形」が文末表現なのであれば、「強調」と考えましょう。ここでの「道こそなけれ」も、文法的意味を問われたら「強調」でOKです。

さて、「道」は「方法・手段」と考えましょう。下の句の「思ひ入る」から考えると、「つらい世の中から逃れる方法」と解釈できます。

思ひ入る

「思ひ入る」は、「深く考える/思いつめる」という意味があります。

文脈によっては、俗世間から離れることを「決心する」という意味で用いることもあります。

ここでの「入る」は、「山に入る」ことも含意していますね。

山の奥にも

「山の奥」に入るということは、「俗世」から離れた場所に行くことですから、「隠遁」の気持ちで入っていくわけですね。

鹿ぞ鳴くなる

「なり」は「伝聞・推定」の助動詞「なり」の連体形です。

「断定」の「なり」と「伝聞・推定」の「なり」は見分けにくい場合が多いのですが、「係り結び」の「結び」になっている「なる」は「伝聞・推定」です。

ここでは鹿の鳴き声を聞いているわけですから、「推定」の意味ですね。