助動詞「む(ん)」は、文末(文末に相当する位置)にあれば「意志」や「推量」で訳すことがほとんどですが、「文中連体形」であれば「仮定」や「婉曲」で訳すことになります。
うーん。
何か具体的な例を出してほしい。
香炉峰の雪、いかならむ。
であれば、「香炉峰の雪は、どんなだろう。」と訳します。
意味は「推量」ですね。
まろ、この歌の返しせむ。
であれば、「返歌をしよう。」と訳します。
意味は「意志」です。
文末にあるもんな。
句点(。)の直前はもちろん「文末」です。
あとは、「と」「とて」「など」といった「引用」を示す語の直前や、終助詞の直前なども「文末に相当する箇所」と言えますね。
では、「文中連体形」というのは?
一人歩かむ身は、心すべきことにこそ。
という例文であれば、文中で用いられており、「身」という「体言」に係っていくわけですから、「連体形」ということになりますね。
こういった「文中連体形」の「む(ん)」は、
仮定 ~ならば・~すれば・~としたら
婉曲 ~のような
で訳します。
「仮定」なのか「婉曲」なのかはどうやって判断するんだ?
身もふたもないことを言うのですが、どちらで訳しても通じる場合が多いです。
たとえば、
これ(梅)が花の咲かむ折は来むよ。
という例文であれば、
文中連体形の「む」を「婉曲」と考えて、
梅の花が咲くようなときは来るつもりだよ。
と訳してもいいですし、
「仮定」と考えて、
梅の花が咲くとしたらそのときは来るつもりだよ。
と訳してもかまいません。
いっそ、
梅の花が咲くときは来るつもりだよ。
というように、訳出しない場合もあります。
「仮定」で訳してもいいし、「婉曲」で訳してもいいし、いっそ訳さなくてもいいんだ!?
記述問題であれば、「仮定」と考えて「ならば・すれば・としたら」などと書くか、「婉曲」と考えて、「ような」と書くか、何らかの訳出をしておいたほうがいいです。
ただ、選択肢問題では、特にこれといった訳出がされない場合もありますね。
ア 花が咲くようなとき
イ 花が咲くとしたらそのとき
ウ 花が咲くとき
の三択問題だったら、どれを選べばいいんだ!
ぜんぶ正解なので、問題として成立していません。
ただ、自分で書くんだったら、「ア」か「イ」がいいですね。
どっちでもいいことが多いとわかってはいても、試験本番で「婉曲」なのか「仮定」なのか自分で区別するのは勇気がいるな。
そもそも「む(ん)」は「確定していないこと」「未定のこと」を意味していますので、本質的な意味としては「仮定」のニュアンスが濃いです。
ですから、どちらでも訳せるのであれば「仮定」でとっておくといいですね。
特に、「係っていくべき体言が書かれていない場合」は、たいてい「仮定」のほうが訳しやすいです。
たとえば、
銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。
という例文であれば、「ん」の後ろに「こと」といった「体言」があるほうが、文法的にはしっくりきます。でも、古文では、「言わなくてもわかる体言は書かない」というくせがあるので、「形式名詞」的な体言は書かれないことのほうが多いですね。
さて、このように、後ろに体言があっていいんだけれども、それが書かれていないときの「む(ん)」は、ほとんどの場合「仮定」です。
銭があっても使用しないとしたら、まったく貧者と同じだ。
と訳します。
じゃあ、「文中連体形」で、直後に体言がなければ「仮定」
「文中連体形」で、直後に体言があれば「婉曲」
と考えればいいんだな。
だいたいそんな感じで問題ありません。
ただ、直後に体言があっても、「仮定」で訳したほうがしっくりくることもありますから、「絶対ルール」にするのではなく、前後の文脈で判断したほうがいいですね。
がんばって見分けるぞ。
ちなみに「むず」という助動詞も、「む」と同じはたらきをしますので、「むず」の「文中連体形」である「むずる」は、やはり「仮定」か「婉曲」になります。