連文節 ― 文の成分となる2つ以上の文節 ―

複数の文節のまとまり

できれば「文節」の話を先にご覧ください。

日本語における「文の成分」は、基本的に「文節の役割」であり、主に次の5パターンに分類できます。

①主語
②述語
③修飾語(連用修飾語・連体修飾語)
④接続語
⑤独立語

それらをふまえ、今回は「連文節」という考えについて学んでいきましょう。

やってやるぜ。

どんとこい。

文というものは、短くて単純な構成であれば、成分を考えるのはそれほど困難ではありません。

たとえば、

  いと  降れり
主語 修飾語 述語

という文であれば、そんなに時間をかけずに成分を見分けられると思います。

そのへんは大丈夫だ。

ところが、この「主語」「述語」「修飾語」「接続語」「独立語」のはたらきをしている部分が、1つの文節ではなく、2つ以上の文節になっていることがあります。

すると、成分を見分けていくのは少々面倒になります。

たとえば、

仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、

といった場合、

「拝まざりければ」という「述語」に対して、「主語」といえるのは、「仁和寺にある法師」の部分です。

ところが、ここには、「仁和寺にある法師」というように、3つの文節が存在しています。

このように、複数の文節がひとまとまりになって「文の成分」の何らかの役割を果たす場合、それを「連文節」といいます。

ひとつの文節を「主語」「述語」などと呼ぶことに対し、「連文節」は「主」「述」などと呼びます。

現代語でいうと、

きみが歌う
文節  文節
  述

きみとぼくが歌って踊る
 連文節    連文節
  主     述

という感じかな。

そのとおりです。

ただ、「文節1つ」でも「主部」「述部」とする文法書もあります。逆に、「連文節」でも「主語」「述語」と説明する文法書もあります。

とはいえ、一般的には、「文節1つ」なら「~であり、「連文節」なら「~とすることが多く、学校で教わる文法も、一般的にはこの形式になっています。

連文節の内部の構成

さて、「連文節」の中には複数の文節がありますので、その「文節同士」にも何らかの「関係」があります。

主に次の4つの関係があります。

① 主ー述の関係

 波の白きのみぞ 見ゆる。
   ー 
 ( 主 部 )

② 修飾ー被修飾の関係

 やがて往にけり
 修飾被修飾
 ( 述 部 )

③ 並立の関係

 賢人聖人 みづからいやしき位に居り、
 並立並立
 (主 部)

④ 被補助ー補助の関係


 歌一首 つくりてはべり
     被補助補助
     ( 述 部 )

けっこうややこしいな。

「連文節」という考えを持ち出すと、文の構造は複数段階の「入れ子構造」になります。

たとえば、

この児、定めておどろかさむずらむと待ゐたるに、

という表現は、次のようになります。


  主  部      修   飾   部      述 語   
                          (被修飾語)
 この  児、   定めて おどろかさむずらむと 待ちゐたるに
 修飾被修飾    修飾 ー 被修飾 

「主部」とか「修飾部」といった「連文節」の中には、文節が複数あるから、文節同士の関係が生まれるんだな。

先ほどの例文でいうと、

   主   部     修飾語   修飾語     述 語  
仁和寺に ある 法師、 年寄るまで 石清水を 拝まざりければ、
①修飾被修飾(主語)
 ② 修 飾 被修飾

「仁和寺に」は、「ある」に対する連用修飾語」になっていて、

「仁和寺にある」は、「法師」に対する連体修飾語」になっています。

「仁和寺にある法師」は、述語「拝まざりければ」に対する「主部」になっています。

この場合、一般的には、

「主はなんですか?」と問われれば、一文節で答えるので、「法師」と答えます。

「主はなんですか?」と問われれば、連文節で答えるので、「仁和寺にある法師」と答えます。

ただし、「文節」を「○○部」という文法書もありますし、「連文節」を「○○語」という文法書もありますので、中高生の学習の世界でも、この語の定義にはゆらぎがあります。したがって、「部」と「語」の違いにそれほど神経質になる必要はありません。

「接続部」は、古文では深く考えなくて大丈夫

ちなみに、「年寄るまで石清水を拝まざりければ」は、

「年を取るまで石清水八幡宮を参詣しなかったので」となるから、

このうしろの文に接続していくわけだよね。

そのとおりです。

そのため、「年寄るまで石清水を拝まざりければ」は、このうしろの部分に対する「接続部」になります。

    接  続  部       述 語 
年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、

という関係ですね。

ただ、古文の場合は、句点までの距離が長く、「一文」の単位で考えると混乱しますので、接続助詞の「に」「を」「が」「ば」などを見かけたら、いったんそこまでで考えたほうがいいです。

古文の場合、接続助詞「に」「を」「が」「ば」などのあたりが、「行為者」「場面」「時間」などの「変わり目(切れ目)」になるのですね。

つまり、現代語の感覚と照らし合わせると、そこで「文が切れている」くらいに考えていいと思います。

「独立部」はあまり多くはない

そう考えると、「独立部」っていうのはあんまりなさそうだな。

「独立語」の「呼びかけ・応答・感動・提示・あいさつ」って、だいたい一言だもの。

2つ以上の文節にはなかなかならないんじゃないかな。

たしかに普通の文の場合、「主部」「修飾部」「述部」に比べれば、「独立部」というのはあまり出現しませんね。

「独立語」は、基本的には「あな」「いで」「えい」「やあ」といった「一言のセリフ」です。

「独立した一言のセリフ」が「独立語」なのですから、そこに2文節、3文節連なっているというのは珍しいことです。したがって、「独立」というのは、なかなか目にすることがありません。

なるほどな。

あるとすれば、「呼びかけ+相手の名称」とかかな。

たとえば、「いかに四郎兵衛殿(もしもし四郎兵衛殿)」みたいな言い回しですかね。

たしかに、そういう場合だと、「いかに四郎兵衛殿」は、「独立部」だと言えますね。

じゃあ、『平家物語』とか『義経記』とかで、いくさの相手に語りかける場面には出てくるかもな。