意味
① ~ものだろうか、いや、~ではない。 【反語】の用法
② なんとまあ~ではないか。 【強い感動】の用法
③ ものの数ではない・取り立てるものではない *連語として
ポイント
もとは、形式名詞「もの」に、反語の「かは」がついたものです。
そのため、「~であるものか、いや、~ではない。」というように、反語の文意で訳すのが基本です。
このように、もとは「連語」なのですが、「付属語」として文末に用いている「ものかは」は「終助詞」と考えてかまいません。
どうしてそれが「強い感動」を意味できるんだ?
「反語」というものは、根本的には「否定の主張」なんですよね。
たとえば、「行くものかは」と言う場合、「行くものだろうか、いや、行くはずがない」と述べていることになります。
ただ、この表現を、実際に成立した事柄に対して述べているとしたら、どういうことを言いたいのだと思いますか?
???
たとえば、「こんな強いチームに勝つものかは」という表現は、「試合前」であれば、「こんな強いチームに勝つものだろうか、いや、勝つはずがない」ということになります。
ただ、いろいろうまくいって勝ってしまったとします。
勝ったあとに、「こんな強いチームに勝つものかは」と言った場合、「普通に考えたら起こるはずがないことが起こってしまったぞ!」という「感動」を表していることになるのです。
ああ~。
たしかに、「実際に勝ったあと」に、「勝つはずがない」と訳すのは、事実関係がおかしくなるな。
つまり、「本当なら勝つはずがないのに! 勝っちゃった!」っていう意味合いになるんだな。
そのとおりです。
もともとは「~はずがない!」ということなのですが、その「はずがない」ことが起きてしまったのです。
ということは、「ミラクルが起きた!」ということになりますね。
そのことから、「なんとまあ~ではないか」というように、「強い感動」を意味する訳し方をします。
ふむふむ。
あとは、「もの」を「重要なもの」という意味で取り、それに「かは」をつけることで、「重要なものであろうか、いや、重要なものではない」という意味になる使い方があります。
訳としては、「取り立てて言うほどのものではない」とか「たいしたものではない」などのようになりますね。
例文
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。(徒然草)
(訳)桜の花は満開のときに、月はかげりのないとき【満月のとき】にだけ見るものだろうか、いや、そうではない。
「道長が家より帝・后立ちたまふべきものならば、この矢当たれ」と仰せられるるに、同じものを中心には当たるものかは。(大鏡)
(訳)道長の家から天皇や皇后が出現なさるはずのものであれば、この矢よ当たれ」とおっしゃると、同じものでも【同じ当たるといっても】、なんとまあ(的の)中心に当たるではないか。
終助詞「ものかは」の例文としては、この2つが有名なものです。
教科書にも出てくることが多いですね。
待つ宵に更けゆく鐘の声聞けば飽かぬ別れの鳥はものかは (新古今和歌集)
(訳)(恋人を)待つ宵に、(その人が来ないで)夜が更けていく鐘の音を聞くと、(恋人と過ごして)満ち足りずに別れるときの鳥の鳴き声などは、ものの数ではない【取り立てて言うほどのものではない】。
この例文については、「付属語」として用いているわけではありませんので、「終助詞」とすることはできません。