『栄花物語』より、「今さらのご対面」の現代語訳です。
関白「藤原道隆」が亡くなったのち、弟の「道兼」が関白となりますが、ほどなく亡くなり、次の関白をめぐって、「藤原伊周」と「藤原道長」がその座を争います。
「伊周」は、「道隆」の息子で、「定子」のお兄さんですね。「道長」は「道隆・道兼」の弟です。
女院(詮子)が、一条天皇のお部屋におしかけて、「次の関白は伊周じゃなくて道長にして」って説得する話があったね。
この説得のかいもあり、「道長」に「内覧」の宣旨が出るのですね。
道長は関白になったわけではないのですが、「内覧」というのは天皇の機密文書を見ることができる職務であり、「関白」がもつ特権機能です。つまり、「内覧をやってね」と言われることは、実質上「関白扱い」といえます。
さて、伊周のほうはこの翌年、花山院への不敬問題で、弟の隆家とともに罪に問われます。
伊周は太宰権帥に、隆家は出雲権帥に左遷されることになりました。いったん伊周は播磨国(いまの兵庫県南西部)に、隆家は但馬国(いまの兵庫県北部)に滞留しているところです。
はかなく秋にもなりぬれば、~
はかなく秋にもなりぬれば、世の中いとどあはれに、荻吹く風の音も、遠きほどの御けはひのそよめきに思しよそへられけり。
あっけなく秋になってしまったので、世の中はいっそうしみじみと趣き深く、(北の方は)荻に吹く風の音も、遠いところ【配流先】のご様子の(木々や葉の立てる)ひそやかな音に重ねあわせてふとお思いになった。
播磨よりも但馬よりも、~
播磨よりも但馬よりも、日々に人参り通ふ。北の方の御心地いやまさりに重りにければ、ことごとなし、「帥殿今一度見奉りて死なむ、帥殿今一度見奉りて死なむ。」といふことを、寝ても覚めてものたまへば、宮の御前もいみじう心苦しきことに思し召し、この御はらからの主たちも、いかなるべきことにかと思ひ惑はせど、なほいと恐ろし。北の方は切に泣き恋ひ奉り給ふ。見聞き奉る人々も、やすからず思ひ聞こえたり。
播磨からも但馬からも、毎日人が(現地と京を)参って行き来する。北の方【貴子】のご病気がますます重くなったので、他のことはない【伊周の身を案じる以外のことはない】、(北の方は)「帥殿をいま一度見申し上げて死にたい、師殿をいま一度見申し上げて死にたい。」ということを、寝ても覚めてもおっしゃるので、宮の御前【中宮定子】もたいそう気の毒なこととお思いになって、(北の方の)ご兄弟の者たちも、どうしたらよいことだろうかと思い悩むけれど、(北の方と伊周を対面させることは)やはりたいそう恐ろしい。北の方はひたすら泣いて(伊周を)恋い慕い申し上げなさる。見聞き申し上げる人々も、心落ち着かず思い申し上げている。
播磨にはかくと聞き給ひて、~
播磨にはかくと聞き給ひて、いかにすべきことにかはあらむ、事の聞こえあらば、わが身こそはいよいよ不用の者になりはてて、都を見でやみなめなど、よろづに思しつづけて、ただとにかくに御涙のみぞ隙なきや。さはれ、この身はまたはいかがはならむとする、これにまさるやうはと、思しなりて、親の限りにおはせむ見奉りたりとて、公もいとど罪せさせ給ひ、神仏も憎ませ給はば、なほさるべきなめりとこそは思はめと、思したちて、夜を昼にて上り給ふ。
播磨では(帥殿が、北の方の様子は)こうだとお聞きになって、どうしたらよいことだろうか、(北の方に会いに上京したとして、その)ことがうわさになれば、自分の身はいよいよ廃れた者【役に立たない者】になり果てて、都を見ることもなくきっと終わるだろうなどと、さまざまに思い続けなさって、ただあれこれと御涙ばかりがとめどなく流れることよ。ままよ【どうとでもなれ】、この身が(これから)またどうなろうというのか、これ【いまの悲しさ】にまさることはあるまいと、お思いになって、親の最期【臨終の折】でいらっしゃるようなときにお会い申し上げたといって、朝廷もいっそう(重く)処罰しなさり、神仏も(私を)お憎みになるのなら、(それも)やはり宿命なのだろうと思うことにしようと、思い立ちなさって、昼夜兼行で【夜を昼として扱って】(都へ)お上りになる。
さて宮の内には事の聞こえあるべければ、~
さて宮の内には事の聞こえあるべければ、この西の京に西院といふ所に、いみじう忍びて夜中におはしたれば、上も宮もいと忍びてそこにおはしましあひたり。この西院も、殿のおはしまししをり、この北の方のかやうの所をわざと尋ねかへりみさせ給ひしかば、そのをりの御心ばへどもに思ひて、洩らすまじき所を思しよりたりけり。母北の方も、宮の御前も、御方々も、殿も見奉りかはさせ給ひて、また今さらのご対面の喜びの御涙も、いとおどろおどろしういみじ。
さて(中宮の)御所では事が露見するだろうから、この西の京【右京】にある西院というところに、(伊周が)たいそう人目を避けて夜中にいらっしゃったので、北の方【貴子】も中宮【定子】もたいそう人目を避けてそこにいらっしゃって(伊周と)お会いになった。この西院も、殿【藤原道隆】がいらっしゃった時【ご存命の折】、この北の方がこのようなところ【西院】を特別に訪ねてお世話をなさったので、その時の(北の方の)お志【お心遣い】などを思って、(伊周との対面の秘密を)洩らすはずがない所を思いつきなさった。母北の方【貴子】も、中宮【定子】も、(定子の妹原子などの)お方々も、殿【伊周】も見交わし申しあげなさって、やはり今改めてのご対面の喜びのお涙も、たいそう仰々しいほど並々でない。
上はかしこく御車に乗せ奉りて、~
上はかしこく御車に乗せ奉りて、おましながらかきおろし奉りける。いと不覚になりにける御心地なりけれど、よろづ騒がしう泣く泣く聞こえ給ひて、「今は心やすく死にもし侍るべきかな。」と、喜び聞こえ給ふも、いかでかはおろかに、あはれに悲しとも世の常なりや。
上【貴子】はうまくお車にお乗せ申し上げて、(隠れ家についたところで)御座所に乗せたまま降ろし申し上げた。とても正気ではいられなかったご気分【ご病気】であったが、さまざまなことを騒がしく泣きながら申し上げなさって、「今は安心して死ぬこともできますよ。」と、お喜び申し上げなさるのも、どうして並一通りと言えるだろうか(いや、並一通りのことではない)、しみじみとして悲しいというのもありきたり(の言い方)であるよ。