これも今は昔、~
これも今は昔、伏見修理大夫は宇治殿の御子にておはす。あまり公達多くおはしければ、やうを変へて橘俊遠といふ人の子になし申して、蔵人になして、十五にて尾張守になし給ひてけり。それに尾張に下りて国行ひけるに、その比熱田神いちはやくおはしまして、おのづから笠をも脱がず、馬の鼻を向け、無礼をいたす者をば、やがてたち所に罰せさせおはしましければ、大宮司の威勢、国司にもまさりて、国の者どもおぢ恐れたりけり。
これも今は昔、伏見修理大夫は宇治殿の御子でいらっしゃる。あまりにも御子たちが多くいらっしゃったので、橘俊遠といふ人の子にし申し上げて【養子に出し申し上げて】、蔵人にして、十五歳で尾張守にしなさった。そこで尾張に下って国を治めたが、そのころ、熱田神宮は霊験が激しくいらっしゃって、たまたま笠をも脱がず、馬の鼻先を向け、無礼な態度をとる者を、すぐにその場で罰していらっしゃったので、大宮司の威勢は国司より強く、国の者どもは怖がり恐れていた。
それにこの国司下りて国の沙汰どもあるに、~
それにこの国司下りて国の沙汰どもあるに、大宮司、我はと思ひてゐたるを、国司咎めて、「いかに大宮司ならんからに、国にはらまれては見参にも参らぬぞ」といふに、「さきざきさる事なし」とてゐたりければ、国司むつかりて、「国司も国司にこそよれ。我らにあひてかうはいふぞ」とて、いやみ思ひて、「知らん所ども点ぜよ」などいふ時に、人ありて大宮司にいふ。「まことにも国司と申すに、かかる人おはす。見参に参らせ給へ」といひければ、「さらば」といひて衣冠に衣出して、供の者ども三十人ばかり具して、国司のがり向ひぬ。国司出であひて対面して、人どもを呼びて、「きやつ、たしかに召し籠めて勘当せよ。神官といはんからに、国中にはらまれて、いかに奇怪をばいたす」とて、召したててゆぶねに籠めて勘当す。
そこにこの国司が下って国(の政治)の処理などがあるところに、大宮司が、私は(挨拶にいかなくてよいだろう)と思ってじっとしていたのを、国司が咎め、「どんなに大宮司だからといって、この国に生まれているのに挨拶にも参らない」と言うのを、「これまでにそのような事はない」と言ってじっとしているので【挨拶に行こうとしないので】、国司は不快になって、「国司も国司による。私に向かってそのように言う」と言って、憎らしく思って、「(大宮司が)治めているような土地を没収せよ」などと言う時に、(それを聞いた)人がいて大宮司に言う。「実に国司と申しても、このようなう人がいらっしゃる。挨拶に参上してください」と言ったので、「それでは」と言って衣冠のいでたちに衣を出して【出だし衣にして】、供の者たち三十人ばかりを引き連れて、国司のもとへ向かった。国司は出で合い対面して、臣下の者たちを呼んで、「あいつを、しっかりと召し捕って処罰せよ。神官とは言うばかりに、この国に生まれておりながら、じつに常識外れの行動をする」と言って、呼び出し湯船に閉じ込めて処罰した。
その時、~
その時、大宮司、「心憂き事に候ふ。御神はおはしまさぬか。下﨟の無礼をいたすだにたち所に罰せさせおはしますに、大宮司をかくせさせて御覧ずるは」と、泣く泣くくどきてまどろみたる夢に、熱田の仰せらるるやう、「この事におきては我が力及ばぬなり。その故は僧ありき。法華経を千部読みて我に法楽せんとせしに、百余部は読み奉りたりき。国の者ども貴がりて、この僧に帰依しあひたりしを、汝むつかしがりて、その僧を追ひ払ひてき。それにこの僧悪心を起して、『我この国の守になりて、この答をせん』とて生れ来て、今国司になりてければ、我が力及ばず。その先生の僧を俊綱といひしに、この国司も俊綱といふなり」と、夢に仰せありけり。人の悪心はよしなき事なりと。
その時、大宮司は、「情けない事でございます。神様はいらっしゃらないのか。下賤の者が無礼をしたらすぐに罰していらっしゃるのに、大宮司をこのようにさせて(黙って)ご覧になっているとは」と、泣きながら訴えて、うとうとと眠った夢の中で、熱田(の神)がおっしゃることには、「この事については私の力は及ばないのである。その理由は、僧がいたからだ。(この僧は)法華経を千部読んで私を供養しようとして、百余部は読み申し上げた。国の者たちが尊く思って、この僧に帰依しあったのを、あなたが憎らしく思って、その僧を追い払った。その事に対してこの僧が悪心を起こして、『自分はこの国の守になって、この返答をしよう』として生まれて来て、今国司になっているので、私の力は及ばないのだ。その前世の僧を俊綱(すんがう)といったので、この国司も俊綱(としつな)というのである」と、夢の中でおっしゃった。人の悪心とはつまらない事であると。

