かく悲しきことを思はせ給ふらん (住吉物語)

〈問〉次の傍線部を現代語訳せよ。

中将は長月のころ、長谷寺に詣で給ひて、七日籠もりて、また異ごとなく祈り申させ給ひけり。七日といふ夜もすがら行ひ明かして、暁方に少しまどろみ給ふに、やんごとなき女房の、うちそばみてゐ給へるを見給へば、わが思ふ人なり。うれしく、「かく悲しきことを思はせ給ふらん。いかばかり嘆くとか知らせ給ふ」とて恨み給へば、姫君、「かくまでおぼしめすとは知り侍らず。御心ざしのありさま、ありがたく見侍れば、参りつるなり。今は帰りなん」とて立ち給ふを、「いかに、おはしどころを知らせさせ給へ」とて、袖をひかへ給へば、

 わたつ海のそことも知らずわびぬればすみよしとこそ海人は言ふなれ

現代語訳

中将は九月ころ、長谷寺にお参りになって、七日間籠って、また他のことはなく【姫君の居場所を知る以外のことはなく】お祈り申し上げなさった。七日という日数、一晩中勤行して夜を明かして、暁のころ少しまどろみなさると、高貴な女房が、横を向いて座っていらっしゃるのを(中将が)見なさると、自分の思う人【姫君】である。(中将は)うれしく、「どうしてこのように悲しいことを思わせなさるのだろう。どれほど(私が)嘆くとおわかりになるか」と言ってお恨みになると、姫君は、「これほど(私のことを)お思いになるとはわかっていません。お心のありさま、めったにないと思いますので、参上したのである。今はもう帰ろう」と言ってお立ちになるのを、「もしもし、いらっしゃるところをお知らせください」と言って、(姫君の)袖をお取りになると、

海の底ともわからずに嘆いていたところ、住むのによい「住吉」と海人は言うようだ。

ポイント

す 助動詞

「せ」は、「使役」の助動詞「す」の連用形です。

「~せ給ふ」のセットの場合、たいていは「尊敬の助動詞 + 尊敬語」(いわゆる二重尊敬)になるのですが、ここは文脈上「使役」で解釈します。

前後関係から考えると、「悲しい思い」をしているのは「中将」のほうなので、「(あなたが私に)悲しい思いをさせなさる」と訳します。

もしもこの「せ」が「尊敬」だと、「これほど悲しいことを(あなたは)お思いになっているのだろう」と訳すことになるけど、そうすると、セリフの後半の「どれほど(私が)嘆くとおわかりになるか」という部分とズレてくるし、セリフのあとの「恨み給へば」ともズレてくるね。

そうですね。

「中将」は、「姫君」に対して、「なぜ私にこんな悲しい思いをさせるのか?」と「恨み節」を述べているのですね。

ここでの「らん」「現在の原因推量」という用法で、「これほど悲しいことをどうして私に思わせなさるのだろう」と訳します。「現在起きている現象」の「理由」を推量しているのですね。

給ふ 敬語動詞(尊敬語)

「給ふ」は、尊敬語「給ふ」の「終止形」です。

ここでは「姫君」への敬意を示します。セリフの中なので、敬意の出発点は「中将」ですね。

らん 助動詞

「らん」は、助動詞「らん」の終止形です。ここでは、「現在の原因推量」の意味です。

「らん(らむ)」には、「現在推量」と「現在の原因推量」の意味がありますね。

ここでの「らん」は「現在の原因推量」で、「これほど悲しいことをどうして私に思わせなさるのだろう」と訳します。「現在起きている現象」の「理由」を推量しているのですね。

ああ~。

「らむ(らん)」は、「今起きていることそのもの」について推量していれば「現在推量」で、「今起きていることの理由」について推量していれば「現在の原因推量」だったね。

そうです、そうです。ここでは「姫君が中将に悲しい思いをさせている」ことは、実際に起きていることですね。

そのように「起きていることがわかっていること」に「らん」がついている場合、その「原因」を推量している使い方です。

なお、セリフの後半の「いかばかり嘆くとか知らせ給ふ」の「せ」は「尊敬」です。「尊敬の助動詞 + 尊敬語」のセットで「二重尊敬(最高敬語)」になります。

「二重尊敬(最高敬語)」は、地の文であれば「天皇」とか「中宮」とか「藤原道長」とか、めちゃくちゃ偉い人に対して用いるものですが、「セリフ」の中であれば、普通の貴族に対しても用いることがあります。